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9月8日 デジャヴー?20年ほど前、ロンドンに来て間もなかった頃のこと、
シティからウエストエンドを目指して歩いていました。
どこを歩いているのかよく判らなかったのですが、
見覚えのある光景を目の前にしました。
前世の記憶が戻りはしないだろうか、などとカルトな気分になったのは、
まだ慣れぬ異国ゆえの緊張でありませうか。
いえ、緊張どころか、パブで一杯、いや2杯引っ掛けてきたばかりでありました。
リラックスしていると、むしろ霊感が働くのでしょうか。
「あれ、前にもこれを経験したことがあるなあ」とか、
「ここに来たことがあるような気がする」
と薄ぼんやりとした実感が迫ってくるのが、いつもの拙のデジャブ体験であります。
ただ単に鈍いとも言えます。
で、しばらくそこに佇んでこの店を眺め、どれだけ実感が湧いてくるのかと試していたところ、
「あ、にゃるほど!ザ・ワールドじゃんか?」
そう、あの人気長寿番組で紹介されていたあの店。
ただ、それだけのことを思い出しては拍子抜けしたのでありました。
拙の記憶に残る以上は、たぶん初期の1981~2年に紹介されたものだったのでせう。
当時、子猫を虎のように、納豆定食を松花堂弁当のように、紹介してしまう術を持った
益田○美嬢が店内に入り、英国紳士と傘との関係を説明するのを聞いては、
それだけで「傘と英国人」のイメージが出来上がってしまいました。
なんでも、
傘をとても大事にする英国人は、
傘屋に頼んでそのカタチを整え、雨が降らずともステッキ代わりに携帯するとか・・。
現代に、このようなことを紹介されておれば、
英国紳士の持つステッキ傘には携帯電話、ロードナヴィ、椅子、一泊の宿などの多機能が付随したハイテク商品になっていたのではないでしょうか。
逆に江戸時代であれば仕込み刀でありましょうか。
しかし、1870年頃のテッポー技術でも、(元)お侍の抜刀スピードとそのテクに遠く及ばなかったという多くの記述も残されています。
ガイジンが撃とうと構えた途端に、腕を切り落とされたとか・・・。(参照;生ビール事件、ウソ!)
話を元に戻しますと、
1980年代初めごろの「にゃるほど・にゃ・ワールド」で紹介されたまま、これが「英国」というフレームを作ってしまった拙とは、
英国に対して貧困なイメージしか持っていなかったと思われます。
英国に幻想を描かれる、多くの現代日本の皆様にも負けなかったことでしょう。
貧困で悪ければ、「無知」であります。
しかし、自らの無知を悟る方であれば、その姿は賢者そのものであることを念のために付け加えておきませう。
などと、言い古された表現ではありますが・・はは。
あー、拙は親切だなぁ。(自画自賛)
その後、知り合って間もない英国人のGFに傘を貸したときのこと、
「キレイに筋を整えた傘が戻って来るだろう」
と期待していたのですが、事実戻って来た傘は膨れ、辛うじてつぼんだカタチはさしずめチューリップでした。
しかも、開いてみるとそのガサツな扱いゆえ、傘の骨の何本かは折れていました。
拙が10年間近く使い続けて、折り目が整った、スリムで軽い手開きの傘でした。
あれだけスリムなものをどうしてこんなに膨らませることが出来るのでせうか。
いくつかの骨は交差し、複雑骨折状態でした。
愛するGFに穏やかに言いました。
「君たち英国人は傘をとても大事にすると聞いていたのだが・・」
「うん、大事にするよ。まだ使えるでしょ」
このことを思い出すと、この娘が後々拙の伴侶となった理由が思い出せなくなります。
たぶん、英国人と結婚したのではなく、妻という個体と婚姻した、ということでせう。
先日、妻が畳んだ傘であります。畳んだとは・・・?
もしかしたら、これは幻か、デジャヴか。
8月27日 ボーダーやはり、このトピックスも差別意識関連。
ちょっとくどいと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
差別の構造を考えると、
いろんなヴァリエーションがあるので、それらの認識のうちのひとつを上げておきたいな、と。
ボーダーとはその一つの概念です。
我々は赤ん坊の頃、よく泣いたものです。
・・なんて、覚えているわけではありませんが、
あの叫びの本質はユニヴァースにあるという説があります。
つまり、赤ん坊には外界と自分との区別がないこと。
赤ん坊は宇宙の中の一つなわけです。
もちろん、我々も同じなんですが、我々の場合は自意識で外界との区別をします。
物事の認識とは自分との違いですから、自分と他との区別とも言えます。
赤ん坊のように何でも舐めて、自分との違いを確かめることから、自意識と認識を育てるわけです。
以上のことはわざわざ語るまでもないことかもしれませんが、
段階を追って述べていくためには必要なことです。
我々はその認識の相違を社会の秩序に利用する一方、時代の趨勢に伴い評価も変化していきます。
ある相違が何らかの理由で変化して、差別という認識に繋がって一つの歴史カテゴリになるのもそのためです。
我々は、性別、年齢、体格、知識、教養、人種、民族、宗教、社会・・・・という架空のものを作り出してきました。
「あいつはこちらとは異なる」と、間合いを取っておけば充分であったことが、
いつしか「間仕切り」となり、「壁」というボーダーになっていったと、拙は思うのです。
この壁が区別や差別の本質かもしれぬ、とは今更の話ですが、
例えば、英国ではパブのサロンがそうです。
今でも、古いパブに行くと間仕切りがたくさんあります。
現存する中でも、一番判りやすいのは、オクスフォード・ストリート駅のすぐ近くのパブ、アーガイルアームズ。
それから、ナショナル・レイルのチャリング・クロス駅近くNorthumberland St.にあるシャーロックホームズパブでしょう。
80年代までのシティのパブには間仕切りは普通でしたが、
シティでは金融街のホワイトカラーだけで占められるようになってから、伝統を重んじるパブ以外は、いつしかその間仕切りも無くなっています。
本来、パブの中に間仕切りがあった理由は、上流、中流、ブルーカラー、女性などがそれぞれ別々に、快適に時間を過ごす工夫でした。
それぞれの立場で、それぞれの話題を共有するシステムだったとも言えます。
考えてみてください。
場末の居酒屋に、もしステッキを突いた6ftのフロックコートの紳士が入って来たら、それだけでも異様でしょぅ。
それ以上でも、それ以外でもない、間仕切りは単なる区別であって、差別とは言いにくい「区別のシステム」なわけです。
この視野を街へと広げてみます。
どなたもご存知のリージェント・ストリート。
大雑把な言い方をすると、リージェント公園からピカデリー・サーカス(あるいは、ウエリントン公像)までを南北に縦断します。
あれは巨大なボーダーです。
メイフェアという世界の富の集積地を囲む4つの大通りの中でも、
このボーダーは貴族と庶民とを分ける分水嶺のような働きをしました。
ピカデリー・サーカスの中心に立って、リージェント・ストリートを北に向いて、地図を広げてみて下さい。
かつて、リージェント・ストリートの西側は貴族の占有したメイフェア
東側は庶民の生活域で、19世紀のPoverty Map(貧民地図)にはリージェント・ストリート以東に貧民街が広がっていきます。
今も残るメイフェアに残る豪奢な建物、ホテル群はかつて貴族達の住まいでした。
細かいことを言えば、Mewsという厩の道には召使が住んでいましたが、
貴族が没落するまでの使用人たちは貧困とは言えません。
序に言えば、現在の貴族たちは、見た目も、財政上も、税務上も目立たぬようにしている人々が大半です。
今の彼らは住みやすさを確保するためのボーダーを外見上は取り払っているかのように見えます。
で、日本にもリージェント・ストリートのようなボーダーはないかな?
と考えたのですが、
ありました!
横浜の国道16号線です。
それもミナトみらい横浜と野毛商店街などを二分する地域です。
国道16号線を境に「さくらぎっちょ」ではなく、桜木町駅界隈から関内駅にかけての西側には別世界が広がります。
元商社マンの拙ですが、ミナトみらい造成以前に「ミナト過去」と言われる界隈に入り浸っておりました。
脚で稼ぐ商社マンはわざわざ港の保税上屋で検品をし、
横浜球場で怪気炎を上げて、
夜の街、「ミナト過去」に繰り出したのです。
「ミナト過去」こそ、大都市、真の横浜田舎町でごんす。
「みなと」の大将、お元気ですか?
餃子と焼き鳥の「アベックセット」はまだ健在ですか?
ニラ卵は50円増しですか?
ああ、帰りたいわが街。ヨコハバ。
ホントは、ボーダーなんて、どでもえーのです。
酔った人間はユニーヴァーサルワールドに還るのでせうか。
8月12日 好奇心をそそる懐かしさチャールズ・ディケンズの作品と言うと、かなり膨大な数に及ぶのですが、
邦訳されていないものもかなりあるんです。 ひとつの理由として、 19世紀のロンドンの社会を正確に表現するための労力と邦訳収入が合わない ということが考えられます。 そう言えば、拙にも1/3ほど部分邦訳した面白い歴史本がありますが、 持ち込んだどの出版社からも「マスプロにならない」 つまり、市場がない、と相手にしてもらえませんでした。
これも労力と見返りが伴わない例です。 その邦訳は完成を見ないまま、拙の本棚で眠っています。 原作者も「売れないだろう」と言うほど、マニアックで狭いマーケットの本ですが、 歴史ものや過去の小説でも、現代の「読まぬ人たちには、見せる本に加工して」出版する必要があるそうです。 このブログも読まぬ人たちが少しでも目を通すように工夫しているつもりですが、 やはり画像中心や情報系に人気があるようですね。
"The Old Curiosity Shop" と、
ディケンズの著書名が店名になっているだけでなく、 この外観はとても店名に合っているではありませんか。 この本は「骨董屋」と邦訳されていますが、 意訳すれば、本日のブログタイトルのように「(好奇心を)そそる骨董店」ではないでしょうか。 この話の内容は映画やDVDにもなっていますし、 [web address] http://www.imdb.com/title/tt0108886/ このお店は入店してからも、いくつかの驚きがありました。 まず、入店するなり「いらっしゃいませ」と声を掛けられました。 主人公のリトル・ネルと祖父トレント老人の逃亡の図。→ 経営者はここに同店を構えて15年の木村さん。
英国を、且つロンドンを知り尽くしておられます。 でも、お仕事はこの店の切り盛りと制作です。 店名からして、てっきり骨董店だと思ったんですが、 そうではなくて、ちょっと古い英国のアイコン(シンボル)を販売されています。 つまり、店主独自のデザインによる英国らしい、あるいはロンドンらしい服飾と、 1900年代初めにデビューしたジョージ・コックスのラバーソールの靴などです。 マーケットトレンドもよく研究されていて、 マスプロダクツ化しない方向で、より良いものを扱っておられるそうです。 手作りの靴、加工された製品がたくさんです。ベージュ革の紐靴が250ポンドから。 おしゃれ品なので、お値段は学生さんたちにはちょと難しいかもしれませんが、
マスプロにしない英国のアイコンが売れるなら、拙の邦訳本も売れるのかな? ディケンズの作品としての"The Old Curiosity Shop"については、 後々、ディケンズ特集でもやりましょうか? でも、それはマニアックだって言う人がいたなあ。
でもでも、200年越しで読まれる作家がマニアックなら、 100年そこそこの漱石や鴎外はどうなっちゃうんでしょう。
ディケンズを知らずして、日本人の知る英国はまだまだってことでしょうね。
8月8日 シティとのボーダーロンドンの路地Bruton Laneを歩いていたら、こんなんを見つけました。
東側の壁面は約8mの高さにあります。
This wall face is the boundary between the city's land and the berkeley estate. 1894
この壁面はシティ・オブ・ロンドンの所有地とバークレー・エステートとの境界線である。1894年
で、現在はどうなのか、と言うと、この近辺の不動産関係は複雑化し、この壁の反対側の所有者はシティとは関係ないし、バークレー地所だったところはいくつかの不動産屋の持ちものとして分割されています。
こんなところにシティの地所があるなんて変だなあ、と思ったんですが、
世界中のどこに行っても、三井や住友の地所があるのと同じで、
シティも運用する地所があるというだけの話です。
拙宅の近所にもCity of Londonの地所があり、風光明媚な場所として、ヴィクトリア時代の都市生活者の憩いの場として整備され、いまだにロンドン市の所有物です。日本で言えば、軽井沢や伊豆に東京都の厚生施設を建てるようなもんです。なかなか粋な計らいですよね。いや、拙宅がそういう観光地というわけではありませんが・・・。
ところで、
シティというのはどの辺のことだかご存知でしょうか?
↑
拙宅の地域。一番南端。
赤の部分、こんなちっちゃいんです。
ピンク全体がグレーター・ロンドンと言われる
市外局番が0207と0208の地域。
拙宅も辛うじてピンクに入りまする。
で、シティにはいくつかのボーダーがあります。
今回は西側だけ紹介します。
上はその目印のひとつ、高等法院。
この辺から西側がWest Endで東がシティ。
上もストランドに置かれたボーダーのひとつ、
グリフィン像の立つモニュメント。
これはHolborn ViaductとHIgh Holbornの境界。
道の両側にこの像が立っていて、南側にはこの↓古めかしい建物。
昔は宿だったことも、人気ショッピングセンターだったこともあるんです。
下は現在の店舗のひとつ。有名なタバコ屋・・・らしい。
シティはノルマンのウイリアム征服王にも難攻不落の自治都市でした。
なだめたり、すかしたり、脅したりしたけども、
ロンドン・シティは、
その絶大なる財力を背景にした軍備で、
ビクともしない。
イングランドをほぼ制圧したのに、ロンドンだけは落とせない。
じゃあ、自治を認めてやっか、
ということで協定(チャーター)を結んで成り立ったのが、
王室とロンドン・シティとの並存というカタチ。
これって、
とても英国らしい国の出来方です。
考え方によっては、
Mayor(ロンドン市長)とは一国の大統領や元首に相当するわけです。
だから、と言うわけでもないんですが、
エリザベス女王も
君臨する地域から外れるロンドン市に入るため、
公には、
現在でも許可が要るそうです。
拙なんかフリー・パスですが、何か?
7月17日 ロンドン・グリニッジの怪日本で発行されているいくつかの旅行ガイドや、HPに「東郷平八郎元帥の彫像がグリニッジの国立海事博物館(Marime Museum)にある」と記述されているので、日英関係史に興味のある拙は、別件で脚を運ぶ傍ら調べてきました。
念のため、東郷とネルソンについて簡単に説明しましょう。
東郷平八郎は1904年の日露戦争の日本海海戦で、バルチック艦隊を撃破し、ロシアの東方侵略を阻止した日本の英雄で、ネルソンに準(なぞら)えられます。ネルソンは1805年のトラファルガーの闘いで、スペイン無敵艦隊を殲滅した英国の英雄です。どちらも国家存亡の危機を水際で防いだということで、歴史的にも高く評価される人物です。
で、博物館は広いから探すのが面倒だな、と思い、案内のヒトに尋ねてみたのですが、聞いたことがない、とのこと。
案内係は図書館で聞け、と導いてくれましたが、図書館司書は30分ほどいろいろ調べた挙句、「ない」とのこと。
司書がキュレーターに聞いてみようと、呼び出したら、一番偉いキュレーターが出て来て、一般には入れない資料室で、1時間ほど調べて、やはり見つからない。
東郷の王室海軍学校在学時代の論文の在り処や、国際船舶法で東郷が的確な判断をした功績などが出てきましたが、これは拙の周知のこと。今は要りません。
で、現段階では、Maritime Museumには東郷の彫像は「ない」というのが拙の出した結論。
あるのはネルソン提督ものばかり。
さらに気付いたのは、
「では、グリニッジ全体のどこかに東郷の彫像はないのだろうか」
そう言うと、キュレーターと司書たちは、
「ビジターセンターに行きなさい」
で、行ってみると、また膨大な資料の中に埋もれて東郷探し。
面白い資料が、ブラックキャブの運転手が使う "Knowledge Point"という本。
これは市販されています。下手な観光ガイドよりもよほど役にたつ。
ここでstatueやプラーク、記念碑などすべて調べてみましたが、やはり見つからない。
時間切れで諦めて帰って来ました。
帰宅して、東郷の彫像の記述をした出版社、ブログ、HPの管理者にメイルを送りましたが、1週間経っても無しのツブテ。
東郷は7年も英国に暮らし、日本海海戦でロシアの脅威から日本を救った英雄だから英国でも有名な筈、と言うのは日本人の勝手な思い込みに過ぎないのでは・・・。
で、ネルソンに準(なぞら)える東郷ですから、ネルソンのHPに行けば判るかも。
と思ってみましたが、結果はご覧の通り。このウェブのDiscussion Groupを選択し、JIPANG BOYのコメントを参照してみてください。マニアでも判らないようです。
東郷を記念したトーゴー通りがウインダミアやスコットランドにあるのは聞いています。でも、それらはまたそれぞれ理由があって命名されたもので、彫像とは関係ありません。
日本のガイドは何を根拠に、海事博物館に彫像があると記したのでしょうか?
どなたか、東郷の胸像をグリニッジで見たヒトはいませんか?
グリニッジの怪は他にもたくさんあります。うひひ。
7月5日 黒い辻自動車タイトルは変ですが、昨日の続き。
あるとき、ブラックキャブに乗り込んで、さあ、ヒースロー空港まで、という時の話。
いきなり、渋滞になってしまって、キャブの運転手(キャビー)と話し込んでしまいました。
聞くと、彼は元法廷弁護士。
弁護士には2種類あります。
ひとつはSolicitorと呼ばれる手続き弁護士。日本なら司法書士のような仕事もやります。もうひとつは、Barristerと呼ばれる法廷闘争を専門にする弁護士。カツラを被って検事側、弁護側で議論します。
このキャビーは元バリスター。
高給が約束されたエリートの職業の筈。
ところが、彼は法廷闘争できるほど口が達者ではないのだそうです。
でも、話していて、彼のインテリジェンス、知識や見識は伺い知れます。どの話題にも付いてくるそのセンスや知識量から考えて、彼の言っていることはウソではないことは、明らか。
現在の収入は、平均して週に1千ポンド。
え、年収5万ポンド(1千万円)近いの?何それ??
しかも、週に3,4回働けば良いということ。
何でこんなに凄いのか、と言うと、もちろんブラックキャブの運賃が高いから、と言うほかに、独占状態だから。キャビーになるための資格試験というのがあって、それが難関この上ない。試験の名前もKnowledgeというくらい、ロンドン中の通りの名前とその道の特性と一方通行、どこに何があるか、あったか、ということまでを求められる試験なんす。一人が10回受けるなんてザラで、人気もあるんす。だって、資格を得たら↑のような好待遇。
クイズ番組に優勝するキャビーも多いです。そんだけ記憶力を鍛えているから。
ロンドンの道って、2万だか、3万だかあるんです。それらがどのように繋がっていて、どのような様相で、どこにどんな店があって、いつ潰れたかなんてことまで覚えています。乗客を乗せて彷徨ってしまったらキャビーは失格なわけです。
ロンドンを歩いていると、ハンドルの上にクリップボードをつけて、地図を広げながら走っているオートバイを見かけるでしょ。彼らは将来のキャビーを目指す人々です。
英国での生活に困らない程度に要求される英単語の語彙数はたぶん1万5千前後だと思います。日本で東大に入学する学生の平均的な英語の語彙数が8千から1万弱だそうです。そうするとキャビーがどれくらい凄いかが、判りませんか。単に意味や語法だけじゃないんですよ。道路の端々まで覚えてなくちゃなんない。
これはロンドンに限ったことではないんです。でも、ロンドンで資格を持っていても、バーミンガムなど他の地方都市ではその資格は使えないんです。
ロンドンに来て間もない頃、家の近所で迷っちゃったんですが、その時居合わせたブラック・キャブに話し掛けると、
「今、ロンドンからお客さんを乗せて来たけど、俺はこの地域では客を拾えないんだよ。それが決まりなんでね」
棲み始めた場所はロンドンの行政区域ブロムリーという地域だったんですが、迷った場所がそこから2マイルほど離れた違う行政域の郊外。この国の人たちは線引きが厳しいですね。まあ、ルールをちゃんと守るから資格を維持できるわけだが・・・。
ブラック・キャブのこともっとネタに出来ますが、続きはまたそのうち。
最近人気のサイクル力車。英人はRickshawと言います。
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応援してくだされ。http://blog.with2.net/link.php/29834
7月4日 的士くしゃみする時に、「テ」という音が入ってしまう友人がいます。「テキシッ」って聞こえるんですが、その音を聞くたびに的士を思い出してしまう。香港に行ったことのあるヒトなら必ず使う的士とはタクシーのこと。
でも、英国ならこれ、↓ ブラックキャブ。 これは1980年代後半のFXタイプで、エンジンは日産。
英国の象徴と思われているこの黒い姿。
でも、90年代の始まりには、やたら広告をつけたキャブを見ましたなあ。
今でも広告車は多いけど、97年以降のTX-1や2002年以降のTX-2というタイプの新車にはあまり広告がついてないような気がしまする。
ロンドン・タクシーズ・インターナショナルは社名を変えながら1920年代からブラック・キャブの製造を殆ど独占してきた会社。ここのサイトを見るとタクシーの今昔がわかる。
ブラックキャブの内装は背が高くて、タクシーなのに解放感がある。旧型のFX式(↑の写真)でも乗客が調節可能の暖房が付いている。TX式にいたっては障害者のための様々な配慮がなされていて、可動式リアシートなんてものがあったりするんです。
ブラック・キャブの運転手さんたちの休み場は、この緑色の建物、シェルター。ここでは一般のヒトも飲み物やスナックを買えます。この写真はオクスフォードストリートから見えるハノーヴァースクエアの一画。
ボンネットを開けて、車を休ませています。この車種は一時期人気があった、確かワーゲンのタイプ。
だけど、今はもう古いものしか見ません。
で、ここでたむろしているオジサンたち、結構博識です。
でも、情報が結構古かったりする。
「日本大使館まで頼むよ」
「日本大使館ね」
「あれ?、道が違うよ」
「いや、こっちでいい筈だ。Berkley Squareだろ」
「それは10年以上前の話だよ。今はPiccadilly」
「それじゃ、どこだか判んないよ」
「100番だよ。キャブの運転手なら何でも知っていると思ったがね」
「なんでも知りすぎているから、更新されない情報もあるのさ・・・、えっと、100番はこの辺かい・・・?」
ブラック・キャブの運転手になるのは、
弁護士になるのより難しいという説もあります。
そんな馬鹿な、と思ったアナタ、明日の更新を楽しみにして下さい。
応援宜しく。http://blog.with2.net/link.php/29834
6月14日 不親切な解答
昨日の続きです。 路地を抜けるとちょっとした広場になっています。
ここはかつて市場でした。 クリストファーズ・プレイスを50m北上して振り返るとこんな景色↓です。
子供の遊べる噴水もあり、
周囲にはアルフレスコ・タイプという
戸外にテーブルを置いたレストランがいい雰囲気を出しています。
同じ地点で北側を見ると ↓
こんな感じ。
なんか気づきました?
道の真ん中にU字溝のフタみたいのが掛かっているでしょ。
ヒントは「原宿キャットストリート」としようかな、
と思ったんですが、
択一式にしてみたら、どの答えもこの溝に関係することに気付きました。
したばって、どれを選んでも正解です。
最初に正解にしようと思っていたのは、
河川
でも、この近所の歴史はこのタイバーン川が中心になったので、
択一式の選択肢は全部関わるってことです。
マドンナの住居はこの近所ですし、
拙は一度だけ子供の手を引く彼女をこの通りで目撃しました。
死刑台ってのも、もともとこの辺にあって、
17世紀にマーブルアーチに引っ越したんです。
現在でもマーブル・アーチの辺りが広くなっているのは、
何万と押し寄せる刑場の見物人を収容するスペースだったからなんす。
そのうち死刑場の逸話でもやりましょう。
で、こういう具合に川にフタをしてしまったのは貴族なんです。
貴族がメイフェア周辺を中心に都市化を進めてしまったので、
ロンドンは今のようになったとです。
で、これですが、
↓
すいません。
ヒントになっていませんでした。
これは中に手を入れると、
ブチュッとヌルヌルしたものが自動的に発射されます。
ヌルヌルを手で捏ねて擦っていると、
生ぬるいシャワーが出てきます。
「突然、ヌルヌルしたもの出してゴメンね」
と詫びるようなちょろちょろとしたシャワー。
両手を擦って、ヌルヌルが・・・、
基い
洗剤が濯(すす)がれて来ると、
息の臭いオジサンがブワーっと叫びだします。
いや、基い、
Blowerです。乾燥機です。
なんと、この穴に手をかざすだけで、
洗剤発射、洗浄誘発、乾燥までをさせてしまうのです。
ロンドン近郊では7,8年前からお目見えしています。
とても無駄なシロモノに見えるんですが、
なんでもここでホームレスの人たちが占領できないように、 トイレとしての機能だけ集約すると、こういう手洗いになるそうです。 但し、ここで用足しをしてはいけません。用足しをした後に使うモノです。
ロンドンは歩いているだけで楽しいです。
ワカル~?
応援してくだされ。 3月29日 散歩の友散歩していると動物に出会います。野性の動物にはなかなか会えませんが、痕跡は判ります。アナグマ、ウサギ、モグラ、昔使われていた鳥の巣。
家畜の代表はなんと言っても馬でしょう。牧場の青草を食べつくしているので、道端の雑草を手でむしって、手のひらに乗せて口元まで持って行くと無表情で食べます。リンゴや梨も食べます。↓の馬は咀嚼中です。
白い牛ばかりの牛舎を通り過ぎました。農家のヒトの機嫌が悪く、種類を聞き損ねました。設備を見ると乳牛であったと思われます。鼻先に手を差し出しただけで逃げるこの白牛はかなり臆病です。 拙は羊が嫌いです。弱そうな態度が気に食わんし、目を見ると可愛いとは思えないからです。肉のニオイもあまり好きではありません。ちょうど、ラムの生まれる季節ですが、この日はどこにも見当たりませんでした。生まれて数時間で元気に走り出すから常に親と一緒です。人懐こいのは最初の2,3週間だけなんですね。ラムを見て「旨そう」と言うと子供に叱られます。
PigはPork,OxやCowはBeef,SheepだってMuttonというコトバに変わって食卓に上がりますが、Lambは皿に載ってもLambのままです。この理由は現在調査中です。記事に間に合わんかった。
川は入漁権があるので、購買許可してない場合はなかなか釣りは出来ません。この川についてはどこにも案内が無いのですが、鱒ほどの大きさの魚をたくさん見ました。でも、すぐに隠れちゃうんですよねえ。こういう↓淵にはたくさん居そうです。
地面は粘土質と石灰質が表面に出ています。この写真の土質は崩れやすい石灰質です。英国の崖が白っぽいのはこの土質のためです。古くはフランスのブルターニュの人々がアルビオンの地(白い土地)と名づけた理由が判る気がします。
10年以上前に2歳くらいの娘を連れて、Ashdown Forestと言うクマのプーさんの舞台となった橋に行った時、一人の日本人女性に会ったことがあります。彼女はこの場所に来るためにロンドンからタクシーをチャーターして来た、と言っていました。道々、英国の郊外の景色を堪能したとも。そういうことに価値を見出すヒトも居るんだなあ、と、テーマを持った旅をするヒトにはさらに深い楽しみのある英国なわけです。
散歩の楽しみ方もいろいろですが、何と言っても広大な丘陵地帯を遠くまで見渡すことが楽しみです。ロンドンからナショナル・レイルで30分以内のところにこういうところはいくらでもあります。Kent州とサリー州はナショナル・トラストも多く、お薦めです。応援クリックお願いします。http://blog.with2.net/link.php/29834
3月27日 パブのランチ
更新する時間を間違えたぁ。今日からサマー・タイムなので1時間遅くなるべきところを間違えて、1時間早く更新してしまった。
まず、昨日の答え。こうして上に引っ張り上げて、犬の道を作ってやります。
鳥の巣跡があちこちに見られます。
昨日の散歩の続きです。
ようやくこんな天気が続くようになりました。
6マイルの散歩を終えて、パブランチを取りました。Royal Oakと呼ばれる人気パブなので、妻の両親と叔母、そして我が家族の合計7名で2時に予約しておきました。歩き始めたのが10時半、パブには余裕で2時に着く予定でしたが、迷い道や寄り道が多く、着いたのは2時半。昼のラストオーダーギリギリでした。皆クタクタでしたが、とても気持ちの良い散歩でした。
道はまだぬかるんでいて、ちょっと険しいところもあるので、トラッキング・シューズが必至です。パブに入る前に泥を落とすか、履き替えるのが礼儀です。
ケント州、サリー州の名産はサイダーです。ciderと書いてアメリカではリンゴジュース、英国ではリンゴ酒、日本では何故か発泡レモネード。日本のサイダーの語源はどこから来ているのでしょうか?
Oak(樫の木)は王室でとても大切にされています。日英同盟100年を記念して日英グリーン同盟が2002年に発足し、Oakの植樹活動をしています。チャールズ二世がオリバー・クロムウェルの追跡を逃れてOakの茂みに身を隠したことから、Oakは王室にとって神聖な木として扱われています。そんな話しにあやかって、避難所、コージーな印象を与えるという意味でOakがパブの名前に使われるわけです。
この店独自のサイダー、Biddenden's Scrumpy はCaskと呼ばれる樽詰めになっていて、「22度が一番旨い」という店主に「冷やして」と言ったら怒られそうなので、そのまま飲みました。まあ、旨いんですが、やっぱり冷えていた方がいいなあ、と。 日本から親類や友達が来ると、こうして田舎の散歩とパブに連れ出します。ロンドンよりも好きだというヒトも多く居ます。サイダーを日本の女性に勧めると大体喜ばれます。飲みやすく甘いからでしょうか。男性はビターやラガーを好みますね。拙は喉が凄く渇いている時や食事と一緒に飲むときはサイダーが適当かと。
サイダーはリンゴの残り物を醗酵させたものですから、ジンと同様に安く作れるために、4,50年前までは労働者の飲み物でした。でも、旨いものに階級はありません。パブやレストランにつき物のセラーの入口。
食事は以下の通り。拙はプラウマンを頼みました。チョイスはチーズ2種、ハム、鯖の燻製などから1種を選ぶもの。拙は下のように濃厚なチェダーチーズを頼みました。プラウマンについてくる漬物が全部自家製で食べたことの無い味で結構美味でした。
息子が頼んだのは、ホットドッグ。ソーセージは少しのパン粉の入ったイングリッシュ・ソーセージでしたが、肉が粗挽きで噛み応えも良く、味付けも満足の行くものでした。仕入れにも念を入れるきめ細かいサービスを心掛けるシェフであることが伝わって来ます。
叔母が頼んだのはビーフ照り焼きのサラダ。サラダと肉が一緒になっているだけですが、お洒落な感じです。ここ10年間で英国人の作る照り焼きのレベルも随分と向上しました。 義理の両親たちはこの店のお薦めのオムレツ料理。これも作り方が上手で味も良かったのですが、昆布茶か何かの隠し味が感じられました。それから、妻はサーモンフィッシュケーキを注文しましたが、これがまた意外な旨さでした。この2品は写真撮影に失敗しました。悪しからず。
あすは「散歩」の最終回です。応援クリックお願いします。http://blog.with2.net/link.php/29834
囲い込みの風景
世の中はイースター休暇に入りました。
イースターについての詳しい説明は「あすとるさんのブログ」にお任せするとして、イースター初日のGood Fridayに拙がしたことを紹介します。
タイトルの「囲い込み」ですが、エンクロージャーというコトバでも中高の歴史で学んだヒトも多いと思います。特に第二次のエンクロージャーは、英国の産業革命の原動力となった工場労働者を生み出すきっけになったと言われています。下の景色を見ると、垣根がずーっと続いていますね。これが囲い込みの跡です。つまり、ここは大土地所有者の土地だから自給自足をしていた小作農の持分は無いよ、とはっきりした区画をした痕跡です。
この頃、農業生産にも変革が興っていて、小作農の削減を図っていました。ひとつは品種改良と機械化に拠る生産と収穫の向上です。もうひとつは安い季節労働力を得る事が出来るようになったことです。大土地所有者に不要になった小作人は、囲い込みによって、やむなくロンドンの都市労働者となったのです。
あいにくの天気で稜線の色が黒くなってしまいました。どこまでも続く丘陵なんですが。
この囲い込み政策はロンドンの南部、つまりサリー州やケント州で特に徹底されました。ロンドンの北部に行くと、こうした囲い込みは南部ほどきついものではありません。南部には労働力が集まり易い事情があったんでしょうなあ。
付け加えて言うと、工場労働者たちはリンゴやホップを摘む季節になると家族でケントやサリーに泊り込みで働きに来ました。ロンドンで職にあぶれた人たちが主でしたが、夏の間は収穫があるので、結構儲かったようです。因みにヴィクトリア時代のイチゴ摘みの最盛期は7月でした。今でもその筈ですが、スーパーでは3月から並んでいます。なんでも日本の農業技術だとか。日本でもイチゴと言えば、20年前までは5月でしたね。
小作人たちが住んでいた長屋。今でも改装されて使われています。天井が低くて結構使い難い。 こういう散歩を楽しむためのガイドは地域の本屋かロンドン市内の大型書店の地域別コーナーに行けば売っています。写真は妻の手。PUB WALKS in Surreyというガイドです。同書はアマゾンでも購入可能です。姉妹書にはPUB WALKS in The Surrey Hillsというのもあります。 今日のこの散歩は6マイル(約10キロ)のノースダウンを歩くものでした。ノースダウンとはケント、サリー両州にまたがった稜線のことです。北があるのなら南もあるだろうと、賢明な読者の皆さんの考えるとおりです。サウスダウンとノースダウンは東西70マイル(約110キロ)南北50マイル(約80キロ)に及ぶ広大なカルスト台地の窪みなんです。秋吉台よりもかなり広いですが、鍾乳洞は聞いたことがありません。もちろんアップダウンがありますから、なだらかな稜線がはるかに続くように見えます。
拙は老後の楽しみとしてこの南北の稜線を妻と歩こうと思っています。
こうした散歩道はPublic Footpathという写真のような看板で表示されています。明らかに誰かの所有地なのにこうしてフィールドの端っこを歩かせてくれるわけです。こうして土地の隅っこをパブリックに開放するには地主がその道をある程度整備しなければなりません。もちろん行政と折半する場合もありますが、こうして開放する地主は社会的に尊敬されます。
散歩ガイドにはFootpathとして紹介されているのに、たまーに、イジワルな地主がヒトの背丈以上の雑草を生やしたままにしておいたり、有刺鉄線でスタイル(↓の写真)をぐるぐる巻きにしているエゲツナイものも目にします。
これはStileという土地の端っこを通るための入口。↑こういうところをまたがって、散歩します。
下世話な話かもしれませんが、稀にpubic footpathといたずら書きされているところもあります。ヌーディストのフットパスになってしまいます。でも、散歩するのは若いヒトは少ないからなあ。
途中には、こうしたデザインの標識もあります。この地域はCrowhurst。カラスの森という意味ですが、東京の森ほどカラスは居ません。やはりゴミ袋の色の違い?
今日のクイズ。これ↓はなんでしょう?先ほど説明したStileに備え付けてあるものです。気の利いた地主の計らいです。この地所の入口と出口にありましたが、他のフットパスでは見かけたことがありません。 散歩していると、たまに車道に出ることもあります。今回は最後の1マイルくらいが車道でした。英国の車は結構飛ばしているので、対向車から見える位置を意識して右往左往して歩かなければなりません。基本的に歩行者は右側通行ですが、右に固執しても安全を確保できないでしょう。
次回は視点を変えてこの散歩を紹介します。たった3時間あまりの散歩ですが、英国の魅力を凝縮しています。散歩は冬でも雨でも楽しめます。この季節は春の息吹を楽しむ季節です。 応援クリックお願いします。http://blog.with2.net/link.php/29834
3月25日 ある日のロンドン
地下鉄の看板って、時々意外なものが写っていて、気を引きますねぇ
↓の 写真のヒトが誰だか判りますか?
ミュージカル、チティチティ・バンバンの主演男優、ジェイソン・ドノバンです。
1980年代後半にオーストラリアのソープオペラ、「ネイバーズ」のアイドル的人気俳優でした。歌姫となったカイリー・ミノーグとも競演していました。
彼も年取ったなあ。
と思っていたら、ジェイソンは数ヶ月前にこのミュージカルから降板して、この写真は別人物のBrian Conleyという情報を頂戴しました。ジェイソンのあまりの変わりように写真を撮ったのですが、人違いなら変わっているのも当たり前でした。かえでさん、有難うございます。
昼はどうしても中華街に脚が向きます。昼前後に用事が無ければ、仕事先からわざわざ中華街に向かって、また仕事先に戻ったりします。それほどの中華愛好家ってわけでもないんですが、目の前に和伊仏中英など5カ国の料理が並んでいたら、自然に箸を向けるのは和中になっちゃいます。
食後にメイン・ストリートを歩いていると、↓のような制服のお兄さんたちがいました。中華門の開閉をして、あちこちの中国人たちと挨拶を交わしています。
背中にはCity Guardianと書いてあるので、なんだろうと思って声を掛けてみました。
「仕事中失礼。 City Guardianとは何をするんですか」
「はい。私たちはパトロールすることで、周囲の安全と清掃を指導しています。必要であれば、違法行為の検挙にも手助けをします」
「逮捕する権利を持っているんですか」
「持っていますが、ウエストミンスター・カウンセルの場合はそれを行使するな、と我々に指導しています」
「とてもフィットにお見受けしますが、何か特別なトレーニングも受けているのですか」
「採用される段階で、武術の経験者が優先されます。また、毎週何度かのトレーニングが義務付けられています」
「警察よりフィットですね」
「・・・」無言で苦笑。
彼らのプライバシー保護のために顔写真は出せませんが、皆さん精悍な顔つきです。身のこなしも武術家そのものです。
ロンドン市内を安全に快適に過ごしてもらおうという主旨でロンドン市議会の始めたシステムです。渋谷でも5,6年前から私設ガーディアンが夜な夜な活動していますね。詳しくはここをクリックしてご覧下さい。大都市ロンドンも安全をアピールするのに必死なようです。
これは、オクスフォード・ストリートで見つけた美女2名 ↓ 。話しかけると気軽に撮影に応じてくれました。でも、うまく写ってなかったので、写真はこれだけ。ロンドンっぽいファッションでしょ。二人はロンドン大学の学生でした。あんまり可愛いので、そのまま通り過ぎて終わらせたくなかったと言ったら、後ろ向きの子は顔を真っ赤にして照れていました。拙も言い過ぎかな。
たまにはこういう軽薄なネタもいいでしょ。
突然ですが、阪神百貨店のイカ焼きが食ベたくなった。 春の甲子園が始まったからだろうか。
毎日のアクセス数は変わらないんですが、クリック数が減り、ランキングも降下しているので、これを機会にブログの対応を考え直そうかな、と思っています。夏まで集中したいこともあるんで、ここに時間を割けないんです。ランキングと毎日更新を止めようかとも考えています。このブログを気に入ってくださったヒトはクリックして下さい。 ↓ → ↓ http://blog.with2.net/link.php/29834
3月20日 いらっしゃい
ホテルっていろいろ趣向を凝らしていて面白いよなあ。
これはSanersonホテルのドアマンたち。とても良い子たちだった。気さくだし。オフにはパブで喧嘩もするし。まあ、それは冗談だったでしょうが。
まさに、いらっしゃ~い。ぶちゅっ! この椅子に腰掛けて、良い写真を撮ったヒトにご褒美あげたい。
クチビルの→を見るとこんな感じ。目の表情が皆違うのね。ここはバーですけど、こういう雰囲気の中で午後茶が召し上がれます。
えーと、原則として撮影は禁止の場所です。拙はちょっとコンタクトがあって許されました。デザイン好きな人には答えられんでしょ。
最近、ランキングが急降下。応援クリックお願いします。http://blog.with2.net/link.php/29834
2月6日 ガス灯設置200周年と赤色灯そんな新聞記事が目に留まったので、ガス灯のことが気になって調べてみた。けど、良く分からない。 日本ではホテルや会館などの私有地内でまだ使っているところがあるようだが、主に東京、横浜、神戸と言ったところ。しかし、どれも小ぎれいでロンドンで見るそれとはちょっと趣きが異なる・・・気がする。1999年改築前の神戸外国人倶楽部の敷地内には使えなくなったライトがあったが、今でもあるのかどうか。 英国で初めて設置されたのは、1805年、Salfordというマンチェスターの街だった。ロンドンに設置されたのは、1807年のPall Mall。トラファルガー・スクウェアの北側から西にまっすぐ伸びた道だ。かつては4万本、213の通りに設置されたということだが、現在はブリティッシュ・ガス会社によって1580本が管理運営されるのみ。今でこそタイムスイッチで点火されるが、その昔は人が種火を持ってロンドン中を歩き回った。結構あぶなくない? ウエストミンスター寺院、バッキンガム宮殿、ケンジントン宮殿そしてセント・ジェームスズ宮殿内のガス灯を4人のチームで担当して管理しているマーティン・カウルフィールドという62歳のベテランは、「2世紀にも渡って使われて来たガス灯に関わって来られて光栄だ」とコメントしている。そりゃそうだろうな。 ウエストミンスターでも気をつけて見ないと、このガス灯を見逃してしまうらしい。最近はロンドンに行く予定が無いので生の写真が撮れない。掲載した写真は単なるイメージだから実際はちょっと違うかもしれない。 Lightつながりで、もう一つのライトについて。先般から別ブログで話題になっているRed light。 人気のない暗がりに女性が一人で立って居ると、"Are you working?"と声を掛ける男性がいる。男性の意味するところは、ナンパなのか、警察なのか、そこに居るのは邪魔だ、と言っているのか。ナンパされたいヒトはバーやパブなどに行けばいいだけの話。端的に言うと、このコトバに"on prostitution"と補えば、この場面での意味が明確に。直訳すると「才能を悪用する仕事をしているんですか」なんてね。性行為は才能か? 派手に着飾って、客引きするのが一般的で、普通のOLみたいなヒトはあまりいない。けれど、見た目に限れば、いないこともない。それはかつてビクトリア時代、世の中全体が厳格な性道徳を実践していたことに関係する。清楚なコスプレを好む紳士もいたわけだ。世の中全体に道徳的な風潮が強まったのは、まさにビクトリア時代から。1837年、18歳で即位したビクトリア女王の生真面目さが、それまで庶民が抱いていたスキャンダラスな社交界の貴族や王室に対するイメージを払拭させ、女王自身も自律した崇高な精神を国民に示し、英国は道徳の国になった。 世の中が厳格になると、もちろん反動が生じる。裏社会も暗躍する。禁じられている売春などは、闇に隠れた商売となったわけで、高級娼婦館や街の女は大っぴらに商売しないものの、ナイトクラブ、サパー倶楽部の中では「自由恋愛」が営まれてきた。 そういう社会だから、隠語もいろいろ出てくる。accommodation(宿泊所),cat house(猫ハウス、猫はpussyの隠語),common house(公共の館、パブとは使い分けたようだ), hot house(温まるというよりも熱くなるんだろうな),house of sin(キリスト教らしい言い方、何にでも罪悪感を持ちましょう)。 で、最もひどいと、拙が思うのはnunnery(女子修道院)。選り取り見取りって意味なんだろうけど、女手一つで育てられた拙としては、こうして女を人間とも思わない表現に対して胸糞悪くなる。別にフェミニストじゃないけど、ただ、女が見下される社会構造が好きになれないだけ。 現在のcommon houseは以下の写真。こういうRed light Houseはロンドン市内にあちこちある。たぶん合法的なんだろうけど、聞くに聞けないやね。原則として自由恋愛の社交場なんだが、ドア開けっ放しの家なんて他にないしなあ。下の写真、本当にレッド・ライトがあるでしょ。さらに下の写真はこのドアがある「通り」です。倫理規定に引っ掛かるかもしれないから、通りの名前は言いませんが、こういうドアのあるところは、こんな雰囲気のMewsだったりします。かつては、厩舎係や狩番などが屋敷の専従者として住んだところです。古くからの高級住宅街であるメイフェア、ケンジントン、チェルシーなどに行くと、屋敷の裏手っぽいところにこういう道筋がたくさんあります。こういうところの散歩も面白いかも。 ちっ、ちっ、ちっ、散歩だけにしときなよ。 ダンディズムは奥が深いです。貴族社会、階級社会にも関わってくるので、簡単じゃありません。でも、ぼちぼちやりましょう。そんなわけで、、、どんなわけか分かりませんが、ランキング・クリックお願いします。 2月3日 五つのキーワード先日、「ロンドンで恋人探し」という記事を前後編に渡ってお披露目しましたが、今日も目的旅行のひとつを紹介します。 今回は、あるヒトに与えられたキーワードから連想されるものを一致させるゲームです。 1.ロンドンに住むA氏が、海外からの旅行者B氏に大テーマと五つのキーワードを与えます。 2.B氏はそのキーワードを元に、旅行前から調べ物を始めて、そのAさんが持つ「五つの答え」と、旅行したBさんが連想したものが3つ以上一致すれば、Bさんの勝ちです。 このゲームはロンドン旅行に来る英語圏からの旅行者とロンドン近郊在住者とのチャットで流行っているそうです。負けた方がビールを奢るという他愛もないゲームです。ビール一杯なら、答え合わせをする時にウソを言う気にもなりませんしね。それでも、ゲームですから、第三者に答えを予め申告しておくとか、期限まで開いてはならないメイルをAからBに送っておくなどの方法を取るそうです。それから、撹乱のためにひとつはダミーを入れても良いそうです。 このゲームを知ったのは、新聞の記事で、恋人探しも同じ記事からのヒントでした。チャットルームの紹介もされているんですが、そのURLにアクセスしてもforbiddenメッセージが出てきてしまいます。残念です。どなたかこういうチャットルームをロンドンでも開けないでしょうか? 例として、拙がこのブログの常連さんたちにテーマとキーワードを考えてみました。 ロンドン近郊に在住のところで、侍氏とmukuiさんに出題するとなると、 大テーマは、「Porky & Delicious」 キーワードは1. Moxon Street 2. Camden 3. Borough Market 4. Marylebone Lane 5. Selfridges 英国にはこれまで縁のなさそうだった「はれのちくもり」さんには、 大テーマは、「Taste」 キーワードは1. Gerrad Street 2. Dean Street 3. Charlotte street 4. Harvey Nicholas 5th Floor 5. Moxon Street 社会科学全般に明るい学生さんには、 大テーマは、「Lost & Wasted Icon」 キーワードは1. Monument 2. Covent Garden 3. South Wark 付近のTyburn 河口 4. Battersea Power Station跡 5. Horse & Dolphin Street それぞれの答えはなんでしょうか?こればかりは実際にやってみないと分かりません。名所旧跡がホトンドないのに、これだけロンドンのアトラクションが隠されていることも意味します。一日でこなせるのはせいぜい2,3箇所でしょう。 このゲームは答えを合わせることではなく、その場に行くこと自体を楽しみ、未知の善人と出会うゲームです。 お気に召さなければ、テーマもキーワードを変えてもかまいません。まあ、以上はあくまで例ですから。 チャットや日ごろの付き合いなどで、相手の興味が分かれば、こうして示唆するのはそう難しくありません。 もっと面白い旅行企画?(企画旅行?)も考えて行きたいですね。他に案があれば、教えて下さい。今日もブログ・ランキング、ここのクリックお願いします。 1月31日 ブルー・プラークの散歩今日は学校の課題のため、娘と娘の友人をロンドンのWartime博物館に連れて行きました。拙宅からロンドンまではナショナル・レイルで約30分です。友人の母親は45歳の小学校教師ですが、生涯のなかでロンドンには4回した行ったことが無いそうです。今日も同伴する拙と娘たちが電車に乗って駅を出る時に、今生の別れのごとく手を振り回していました。その娘も終始ドキドキしていたそうです。因みにこの娘は学校の特待生です。天才と言われる娘と彼女の二人を目の前にして、本当かいな、と思いつつフィクションよりも面白い現実に一日中笑顔が続いたような気がします。週末は面白いことが多い。かな? さて、今日のお題、 イ○ジンのうがい薬よりも、もうちょっと濃いヨード液を食後すぐに歯に塗ると、歯が青くなる。これをブルー・プラークという・・・・のであれば、話はここで終わってしまう。 もちろん、歯垢(しこう)のことではない。でも、同じスペルだし、字義も同じだ。歯だろうが、壁だろうが、文字通り「貼り付いているもの」なのだ。 ブルー・プラークにはURL(ここをクリック)もあれば、ガイドまである。 ロンドンを歩けば、棒には当たらなくてもブルー・プラークには当たる。誰もが見ていて、かなりの人が「あの青い丸いヤツ」という表現をする。拙もrounded blue commemorative plateなどと長たらしい表現を勝手に作っていたような気がする。何が書かれているのかは写真を見て頂こう。こんなものである。
どういう人物がこうして丸く囲われるのか。見ての通り、有名人である。最初の頃は単に有名人であれば、この丸の中に収めていた。最初のものは1867年に王立美術協会によって取り付けられたが、現存する最古のものは1875年に設置されたナポレオン三世のものだそうだ。彼はクーデターに失敗して、第二帝政を達成する前の1848年に英国に逃げ込んで来た。その場所が1cKing street, St.James's SW7。 この所在地を説明するだけでも立派な記事になってしまいそうだ。今日はブルー・プラークのイントロだけにするけど、いいでしょ? 日本でも馴染みの有名人のものを見つけやすいのは郵便番号がSW1のところ、これは添付の地図を参照されたし。下をクリックすれば拡大します。どんな人がいるか、ざっと示すと、ゴッホ、チャーチル、オスカー・ワイルド、ニュートン、ディケンズ、シャルル・ドゴールなど。こんな狭い地域に世界の富と世界をリードした人物がたくさん集まっていたことが驚き。 で、ブルー・プラークにはガイドブックもあるが、そのガイドにすべてのプラークが載っているわけではない。なぜなら、誰かが勝手に拵えたプラークもあったり、取り扱う機関が変わったりしたから。現在のブルー・プラークは1986年からEnglish Heritageが担当している。選考基準は明確にされていないが、有名で且つ社会貢献をした人物が選ばれるらしい。このガイド自体も改編を重ね、いろいろな種類のものが出されているが、これまでのどのガイドからも無視されている有名なプラークもある。3つのプラークの写真を見れば、その違いはよく判る。上の方に設置機関名が読み取れるでしょ。ひとつはLondon county council、もう一つはEnglish Heritage、そして機関名のないもの。これだけで、どれがガイドに載りそうかは分かりそうなものだ。 しかし、こうしてガイドにないものもあるからこそ、実際に歩いてみないと判らないわけで、こういうものを探すのも散歩の楽しみの一つ。 次回はいつになるか未定ですが、ブルー・プラークの散歩がてらに、いくつか我々との関わりのある人たちを紹介して行きましょう。今日も宜しくここんところクリックお願いします。
1月11日 ロンドンで恋人探し 下編一方、利子(りこ)も英吉を探すリストは作ったが、行動には伴っていなかった。。彼女のリストは以下のとおり。
1.漱石の足取り、2.ケーキ屋めぐり、3.ケンジントン、4.ボンドストリート、5.マーケット、6.美術館、7.博物館、8.ウェストミンスター寺院、9.テムズ河畔、10.マーケットめぐり、11.コヴェント・ガーデン、12.アーケードめぐりなどなど。
一応、英吉の考えそうなところをいくつか挙げているが、利子は英吉に探される立場にあると判っていて、主に自分の行きたいところだけをリストアップしてみた。おそらく英吉は彼女の行きたいところは判るだろうが、そこにいつ行くかということがポイントだった。そこで、旅行に出る前に英吉にはヒントを与えておいたつもりだったが、果たして彼に判るかどうか。
利子は英吉よりも3日目前にロンドンに着いて、買い物もケーキ屋も充分楽しんでいた。自分のことばかり5日間もすると、さすがに夫のことが気になって来る。人の良い夫を普段はバカにしたような振る舞いをしているが、それは利子なりの愛情表現だった。世の中に英吉よりもたくさんいい男はいるかもしれないが、側にいてくれるのも、一緒に食事をするのも英吉でなければ駄目だなあと思うばかりだ。
「お、あたしは英チャンに惚れているんだ」自分の目が熱くなるのを感じて、こうして一人でおどけてしまう利子だった。
ロンドン到着後5日目の日が暮れてもになっても、英吉は利子の行方を絞りきれないでいた。ジャケットのポケットにふと手を入れると、がさがさした紙が入っていることに気付いた。見ると、初日に作ったリストである。ほとんどのところに行ってしまって、遠めのウィンザー城以外は2度ずつ足を運んでいる。ただひとつ、実行していないのは「漱石」だった。
「そうだ。まずロンドン塔に行こう」
捜索最終日となる6日目の予定を立てた。まず、朝一でロンドン塔に行き、中を走って見る。そこで見つからなかったら、出来るだけ川沿いを歩いて、ブラックフライヤズからエンバンクメントを西に向かう。地下鉄のテンプル駅辺りで北上し、オールドウィッチの西側からコヴェント・ガーデンに出る。その後は大英博物館を目指せばいい。漱石の第一の下宿先となったガウワー・ストリートはそのすぐ西側にある。
「どこかで必ずかち合う筈だ」
英吉には根拠のない自信があった。漱石が自分と利子を導いてくれるようなそんな気がしてならない。そして、この最終日こそが、利子と自分との時間と空間とが共有できる唯一の日だと信じることが出来た。
朝8時には英吉は朝食を済ませ、9時に開場するロンドン塔に向かった。チャリングクロス近辺のホテルからなら歩いても行けるが、こんな早くから利子が歩いているとも思われない。まず、ロンドン塔に行って、利子の行きそうなところのめぼしをつけて、それから漱石が辿ったと思われる道を歩こうという作戦である。この道を辿るのは下宿からロンドン塔を目指した方のが判りやすいので、利子とは道の途中でかち合う可能性が高い。
しかも、川沿いは4車線もある広い道を挟んでいるとは言え一本道だ。利子はきっと出来るだけ川沿いを歩く。英吉は昼頃までが勝負だと踏んだ。
ロンドン塔では、今日買った券で何度も出入りが可能だとビーフィーターに教えてもらった。戻ってきてもまだ充分捜索時間はある。英吉は10時にはロンドン塔を出て、対岸のシティ・ホールに目を向けると、出来るだけテムズの北岸沿いを歩くことを意識した。軍艦ベルファースト号を横目に「ああ、ドキドキするなあ」とつぶやいた。
「漱石はどういう気持ちだったんだろう。こんなに不安で心細かったんだろうか。今みたいに街中に日本人が溢れているわけじゃないし、確か到着したばかりの頃にこの道を辿ったんだもんなあ」
やがて、前方にロンドン・ブリッジが近づいて来る。Grants Quay Walkに続く歩道の右手はかつて魚市場だったOld Billingsgate Market跡である。すぐ側にはロンドンの金融街があるので、この位置関係にかつての流通と金融の身近さが感じられる。
そんなことを考えながら、行けども行けども、英吉の視界に入ってくるのは、テムズと対岸の壮大な美術館などの建築郡だった。しかし、出会いはとてもあっけなかった。ブラックフライヤズ・ブリッジの先にある遊覧船乗り場付近は小ぎれいになっていて、明るい場所でもある。
乗り場のすぐ近くにあるトイレから、ふと見覚えのある形が目の前に忽然と現れたのである。
利子「あら」 英吉「やあ、やっと見つけた」 利子「トイレの前なんてね」 英吉「まあ、いいじゃん」 英吉は利子を抱き寄せた。 利子「ちょっとやめてよ。人が・・・」 英吉「構うもんか」 英吉は強引にキスをする。もちろん、利子は抵抗しない。ただ、トイレの前であることが気になった。
空港で、 英吉「この一週間、これまでにないくらい君のことをいっぱい考えたよ」 利子「当たり前でしょ」 利子は懐から封筒を出して2つに裂き、チェックインカウンターの職員に「捨てといて」と頼むと、英吉に微笑みを返した。ヒースロー空港にゴミ箱はないのである。
ようやく出会うことが出来た二人、つまり、英吉と利子は、これでめでたく英吉利子夫婦なのでありました。面白かったでしょうか。なんのことかよく判らない人は、「いぎりす」を漢字変換してみてください。日英関係の初期公文書には、イギリスは英吉利子とも表記されています。
利子の出したヒントは「罰を受ける」ところと「離婚」です。
以上、設定にはむろん無理があります。目的は漱石の散歩道に無理やり皆さんをお連れをするためでした。そのため、それぞれの通りのウンチクは省きました。どうでもいいよね。
こういう恋人探しのような妙ちきりんなテーマ旅行を世界中でやっている英国人が増えてきました。 "erotic pursuit"と覚えて下さい。ヴェニスとかフローレンスというやや小さめの街でやると盛り上がるかも。 1月10日 ロンドンで恋人探し 上編話はロンドン到着の翌日、Day2から。
31歳の英吉は、ロンリー・プランダジネット社の英文ガイド「ロンドン」と日本語の旅行ガイド「地球のさまよい方ロンドン版」を持って、トラファルガー広場の階段に座っていた。新婚旅行の時は、落ち着いて座っておれないほど周囲は鳩のポチャリ公害を被った不潔な場所だった。鳩自体もバイキンだらけに感じられたが、無表情な餌売りのオバサンたちも胡散臭かった。今ではそのどちらの姿も見られない。
英吉「前に一緒に来た時はここが好きだったけど、何でかなあ。今の方が清潔でいい感じだけど・・・」
ナンセンス・コラムと言われるネルソン提督の彫像を見上げ、空の低さを確認すると、そこは確かなロンドン。周囲を見回し、妻の利子(りこ)が居ないことを確認すると、英吉は軽く溜息をついて、次の目的地であるナショナル・ギャラリーに目を移した。広場のすぐ北側なので、昨晩ホテルで作成したリストを見なくてもすぐに判る。
英吉の作ったリストは次のとおり。 1.トラファルガー広場、2.ナショナル・ギャラリー、3.テムズの遊覧船、4.漱石が第一の下宿から歩いた道、5.アーケード、6.マーブル・アーチ、7.中華街、8.セントポール、9.セルフリッジ、10.アフタヌーン・ティのおいいしいところ、11.ウインザー城、12.シティ・・・、そして最後はヒースロー空港の第3ターミナル。
これは利子がひとりで行きそうなところをランダムにリストアップしたものだった。ヒースローに行くまでに遭えなければ大変なことになる。英吉はロンドンに到着した昨晩は利子の好きな中華街のレストラン、メイフラワーで一人食事をし、夜な夜なカジノを訪れては、入店の登録だけを済ませた。登録後にその人物の行状をチェックするため、48時間断たないと入店が許可されない。ギャンブル好きな利子はここにも現れるかもしれない。
今日もリストの半分も行かないうちに日が暮れてしまった。ここも利子のお気に入りであるピカデリーのカフェ・ロワイヤルで、英吉は一人ハウスワインを頼んで、ナッツをつまんでいた。一日歩き回った足の指先はバイブレータに掛かったようにジーンとしている。何も手掛かりがない。二人に共通しているのは、同じ旅行ガイドを持っていることと、新婚旅行がこのロンドンだったことだ。
これはかなり無謀な企画だったかもしれない。2日目にして、英吉は後悔をし始めていた。この旅の始まりはふた月ほど前に遡る。
英吉「旅行に行こう」 利子「どこに?」 英吉「もうだいぶ行ってないから・・・、ロンドンなんかどう?」 利子「うん。いいよ。でも、有給使っちゃいたいから、私少し先に行ってていい?」 英吉「なら、向こうで落ち合うわけだね」 利子「どうせなら、ロンドンなんか東京に比べたら狭いところだし、ケータイも持たないで、旅行ガイド以外何も無い状態で、お互いを探そうよ」 英吉「だって、おれ英語が・・・」 利子「そんなの何とかなるわよ」 利子は時々こうして時々、突拍子もないことを言い出す人間であることは英吉もよく判っていた。何かテーマを決めて、それを辿って行こうじゃないかとか、食べ歩きをしようと、英吉は提案したが、「人のやらないことをやりたい」という一言から始まった利子の穏やかな情熱に、英吉は圧倒されてしまった。 利子「期限は1週間ね。帰りの飛行機は同じ便で予約しとくね」 英吉「君も僕を探すんだよな?」 利子「もちろん、そうよ。でさ、もしお互いが最終日のヒースロー空港まで見つけられない場合は、お互いに罰を与えようよ」 英吉「何それ?」 英吉には嫌な予感がした。また、とんでもないこと言い出しそうだ。そして、その予感は外れたことがない。 利子「離婚しよう。成田で」 英吉「はぁあ?成田リコォン?」 利子は自分の分の記入を済ませた離婚届を英吉の目の前に差し出した。
さて、このカップル一体どうなっちゃうんでしょう?続きは明日。完結も明日。 1月3日 倫敦塔まで その一漱石の「倫敦塔」に「下宿から歩いた」という記述があるので、第一の下宿からロンドン塔までの道のりを測ってみたら、僅か6キロだった。一度、娘と歩いてみたことがある。偉大な作家を一人選んでエッセイを書く宿題が娘に出されたので、これを機会に散歩取材をしようと、実際に漱石が歩いたと思われる12月の初め頃に行ってみたものである。
漱石は下宿からロンドン塔に辿るまでの道筋について何の記載もしていない。しかし、彼は歩いている間に想いを巡らせた筈だから、その足取りを追うことは意味のないことでもないだろう。ただ散歩しているだけでもロンドンは愉快だが、こうしてテーマを持って歩くと、同じところを歩いていても、新たなことが肌身に判るから心地よい。
肩肘をついて斜に構える漱石のモノクロ写真。物思いに耽り、焦点の定まらぬ目線を投げかけている。それは教養を愛する人にとって憧れの姿ではないだろうか。
たとえ英国人と比べて、その身体が貧弱であっても、顔中に疱瘡の痕が残っていても、かんしゃく持ちで家族に恐れられる存在であっても、文学の大家としての漱石の地位が揺らぐことはないだろうし、むしろ多くの人がその真の姿を見て勇気付けられるだろう。
漱石が留学をした頃から100年を経た現在でもロンドンは憂鬱な街である。ロンドン市内の名所を思い浮かべると、それがどこであっても画面の三分の一はコンクリート色の空が迫っている。霧雨だと思って傘を差さずに歩いていると、じんわりと上着に染みてきては、身体と心を縛り付ける。多くの在英邦人がそうするように、漱石もこの憂鬱と闘ってしまった。憂鬱と仲良くなることの方がもっと簡単なのに。
日本の雪国の低い空と、梅雨の季節と、骨まで凍みる寒さの3つが組み合わさった気候と言っても、まだ不十分なのだが、漱石はそういう空の下、下宿からロンドン塔まで歩いたに違いない。漱石の短編「倫敦塔」は、その注意書きに「過半想像的の文学」と記されているが、汽車や馬車も使わずに歩いたことは本当のことだ。それは歩いてみて確信を深める。
「倫敦塔」に書かれている下宿とはホテルだ。それも安宿である。当時の日本人に判りやすい表現をあえて選ぶと下宿になるんだろうなあ、と思いながら、Gower Street76番の前にたたずむ。いきなりここから話を進めるのも不親切な話だ。この場所は大英博物館のすぐ西側の大通りだ。最寄の駅は地下鉄グッジ・ストリートか、ユーストン・スクウェアか、トテナムコート・ロード。いずれの駅からでも徒歩5分てなところだ。
青いドアがあり、3階立てのビルの窓から見る限り、現在はホテルではない。物置に使われているような部屋も見える。改装と改修を重ねた英国建築の内部は、外見ほどシンプルではないから、想像してもキリが無い。ただ、漱石がこの空間に存在した1900年はB&Bと言われる程度の簡易宿だったんだろうなあ、と納得するしかない。
最近はこういうこじんまりとした宿が星高の高級宿よりも人気があり、宿泊費用も上がっている。今でもGower Street近辺には宿は多いが、シングルで40ポンド(約8000円)前後なので安いとは言えない。1862年に万博に参加するために日本から遣英使節が来た際は、時の駐日公使オルコックの計らいで、クラリッジ・ホテルという国賓級を扱う宿が利用されたが、漱石の場合は国費留学生であったし、当時の為替差を考えると、利用可能な宿がこの程度だったことは当然と言えよう。
この後、漱石の下宿はグレードダウンしていく。言わばホームステイになるわけで、クラパムという処に落ち着くまで、来英からの9ヶ月間に五つの下宿を経験している。
話がGower Streetから一向に進まない。1790年ごろから家並みを保つこの周囲はその醜さを何名かの建築家から酷評されている。しかし、この程度の家並みは普通だと思う。現在ではロンドン大学の学生が闊歩する賑やかな面もある。ロイヤルアカデミーのドラマ部門もこの辺りだ。
Gower Streetを南に下ると、右側に視界が開けて来る。巨大な楕円形の芝生が広がったベッドフォード広場が見え、左側には大英博物館の背中が見えて来る。しかし、ここからがロンドンに着いたばかりの人間の試練である。この地域は道が入り組んでいるし、一本道の名前が途中で変わることもある。果たして漱石はどのような道を辿ったのか。次回を待て。
明日は、たぶんアフタヌーンティの話。 1月2日 散歩について「散歩」ほど拙の心に響くものはない。
時速4キロという速度は速過ぎず、遅過ぎず、バックオーライ、スライドオーライである。人と話が出来る速度であるし、振り返られる身軽さもある。誰とも話したくない時は、そういう顔をしていれば良いだけの話で、英国の老人たちは話し好きだが、こちらの表情を察してくれる。本当に老成という表現に相応しい、英国の老人たちの言葉の選び方には関心させられる。
「ハイキングにはちょうどいいね」 通りすがり、不意に声を掛けられる。 「暑くもなく、雨もなく」 「ええ、そうですね。おばあさんも気をつけて」 「私は大丈夫だよ。この道をもう50年も歩いているんだ。道路のへこみまで知っているよ」
こういう他愛のない会話から、その老人の人生から浮き出てくるものを感じる。ああ、拙もこういう老人になりたいと思う。
散歩にはいろいろなテーマが込められている。こうやって、爺さん婆さんと語らう散歩の他に、漱石の足跡を辿る散歩、ロンドンの川の散歩、お化けの散歩、ディケンズの散歩、ローマンロードの散歩、メイフェアの散歩、メリルボーンの散歩、ブリティッシュ・アイコンを辿る散歩、テムズの散歩、変なものを見つける散歩、・・・・市内を回るだけでもキリがないくらいいろんな散歩が出来る。
ところで、なんでロンドン都内という表現はしないのだろう。市内ではあまりにも小さいじゃんか。たぶん、City of Londonを最初に邦訳した時、東京は「市」だったんだな。くどいようだけど、たぶんね。異論反論はコメントで。
カテゴリの「日本の中の英国」は日本での散歩のテーマになるが、今後はロンドンに観光する人々のために「ロンドンの散歩」についてもカテゴライズしよう。手始めはやはり「漱石」だろうか。まあ、普通のことは書かないけれど、少しずつやって行きましょう。
天才少女ムクイ氏がロンドンについて、彼女の感性で的確に表現をしていましたが、どこに書かれていたか思い出せないので、彼女のブログにそれを見つけて下さい。彼女が語る東京は「世界で一番壊れた街」だそうです。とても魅力的な表現です。壊れたものはまた何かを象っていく、想像の場ですから。
拙の語るロンドンは、いつも何かがジッとこちらを見ている街です。魑魅魍魎だけでなく、チャーチルやその前の時代の人々がいつまでも街の中に染み付いています。生きている人間ではなくて、得体の知れない精神の塊がそこここに浮遊しているようなところです。
明日は特別に「思いつき」がない限り、漱石の足跡にします。
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