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日志


8月24日

偉業と英国人差別

 
昨日の記事を書いていて、
 
サトウ卿のご子孫のことを思い出しました。
 
これまで何回か引き合いに出して来た元全権公使アーネスト・サトウ卿のことです。
 
1895年、英国公使館時代に公使となったので、もちろん故人ではありますが、
 
ご子孫である、尾瀬を守った植物学者武田久吉博士の話を通して以前述べたとおり、
 
サトウ卿の遺志は武田家へと、国境を越えたカタチで今も受け継がれています。
 
 
著書も多く、現在でもこのURLのとおり、
 
 
武田久吉博士も1972年に故人となられていますが、                                    サトウ卿はたくさんの著書を出されています。
 
その功績は以下のURLで見られるように、
 
桧枝岐にある「武田久吉メモリアルホール」で確かめることも可能です。
 
 
拙は99年から2003年までの在京中、
 
武田博士のお嬢さんに何度かお目に掛りました。
 
ご高齢ですが、日英関係の集いなどには積極的に参加されておられました。
 
拙も仕事柄ご協力を賜ることも多く、年に何度かお会いしたものです。
 
史実も公文書などで知る以上の内容を個人レベルで聞かされると、
 
相当な臨場感が加わるものです。
 
個人レベルでの事実と公文書レベルのものとを咬み合わせて、
 
事実と事実とをつなげば、それは痛快な「歴史」という読み物になります。
 
 
 
 
ところで、
 
サトウ卿はスウェーデン人の父と英国人の母との混血でした。
 
サトウ(Satow)という名前はスウェーデンでは普通にある名前です。
 
武田久吉博士は母上が日本人で、国籍上日本人でした。
 
1/4白人の血が混じった武田博士のお嬢さんはキレイなハーフ顔をされています。
 
ある大学の教授として長年教壇に立たれたので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
 
たまたま、拙の子供達を紹介した時に、意外なことをお聞きしました。
 
「私たちが子供の頃は、アイノコ、混ざり物ってバカにされて、差別を受けたのよ。同じ日本人にね。でも、アナタのお子さんはこの時代に生まれて少し良かったわね。ハーフ、ハーフってもてはやされるのも、カタチの変わった差別に違いないんだけど、あたし達が受けた屈辱を受けてなくて済むだけ、日本人の人種意識が少しマシになったのかも・・・」
 
こういう話を聞くと、サトウ卿や武田博士の偉業を知るだけに、日本人として、人間として恥かしい気持ちになるのは拙だけでしょうかね。いえ、たとえサトウ卿が普通のヒトだったとしても、unfairな姿勢には対抗意識が湧きます。彼女が差別を受けた時代は、日本と英米との関係が危機的状況だったので、差別意識のないヒトたちでも、仲間外れにされるのがいやで周囲に同調してしまったということも考えられます。当時のダイナミズムに揉まれた人間模様を想像するのも容易です。
 
サトウ卿や武田博士のような偉人になるのは難しいですが、
 
ヒトのフリを見て、我がフリを省みるのはけっこう簡単です。
 
自分のしていることに気づかないことって、ありますもんねえ。
 
 
 
11月27日

英国公使館からの葬送

 
25日の続きですが、
 
ある方面から、ちょっと質問を受けましたので、以下お答えします。
 
 
 
大使館に昇格したのは、
 
日英同盟批准後の1905年ですから、
 
まだ当時は公使館。
 
大使館と公使館はどう違うの?
 
と聞かれそうですが、大差ありません。
 
大使館では、公使職がNo.2になって、大使が元首の代理になるわけで、
 
正式な役職名は特命全権大使。
 
公使館では、公使が最上階級ですから、これも元首の代理。
 
正式な役職名は特命全権公使。
 
この辺のことは1815年にジュネーブで決められたもので、
 
第一条に外交使節の3階級を設けています。
 
一番高いのは、大使とローマ法王です。
 
ま、そんな感じです。
 
 
 
 
 
で、今日のお題、
 
フレイザー公使の逝去後、
 
葬送ルートはどうだったんだろうと
 
調べたんですが、
 
2つの情報を見つけました。
 
ひとつは、内堀通りを三宅坂下まで行って、青山通りに向かう道。これだと最短で、道路も広く、葬送も楽に済みます。でも、慰霊の手続きがないのは変です。
 
もうひとつのルートは内堀通りをさらに南下、東進し、日比谷通りに入り、芝の大僧院で盛大な葬儀の後、現在の「芝交差点」付近から環状3号線に沿う旧道を使って、一の橋、麻布十番付近を通り、乃木坂付近から青山墓地に向かう。ただ、現在では六本木付近はトンネル化されて、当時とはかなり変わっていますので、正確なルートを表しきれない。
 
おそらく後者のルートが正しいと思われるのは、やはり慰霊がポイントです。複数の資料からもツジツマが合いますし、圧倒的に資料が多い。
 
葬送には300台の車と何万という参列者が続いたそうですが、逝去された1894年の道路交通事情や、当時の日本に何台の高級車、基、乗用車があったかと考えると、日本中の高級車が全部集まったと言っても良いくらいでしょう。
 
100年以上前に大名行列のような葬送行進が何百メートルも続いたというのは、当時の日英関係の重要性を示しています。
 
先にも述べましたが、当時の公使とは、現代の大使と同じで、国家元首の代理です。ヴィクトリア女王の代理が亡くなったのですから、慰霊には明治天皇も参加されました。
 
 
 
 
ところで、フレイザー公使には、メアリという奥さんがいました。
 
この奥さんは詩人でもあり、作家でもあるんですが、日本から欧州に棲む友人に宛てた手紙を整理して出版されています。
 
邦訳もされています。
 
「英国公使夫人の見た明治日本」
 
記述の美しい本で、100年以上を経た今でも読む価値があります。
 
公使夫人としての日常と、
 
彼女自身の特別な感性を綴ったものです。
 
ここをクリックすると内容の一部が紹介されたURLに移動します。
 
現在でも、大使館公邸内に棲む子供たちのために、
 
大使夫人がクリスマスプレゼントを上げる習慣があります。
 
その習慣はフレイザ夫人が始めたことで、
 
同書には当時の楽しい様子が描写されています。
 
この本の副題が
 
"Letters from home to home"「故郷から故郷への手紙」
 
というのですが、彼女は日本を心底愛してくれたようです。
 
外交生活で数々の国を渡り歩き、
 
その国での生活を最初から組み立てて行かねばならないなど、
 
外交生活は見かけほど華やかなものではないんです。
 
同時代に日本の社交界に同席した三宮夫人とベルギー大使夫人エリアノーラ・メアリ・ダヌタン夫人との両ご婦人は、元々英国人でした。それぞれ婚姻で、英国籍を失いましたが、御三方とも仲良しだったようです。
 
 
 
 
 
 
三宮夫人については、ここをクリックしてみてください。
 
ダヌタン夫人は、その日記が本になっています。
 
こちらも邦訳され、「ベルギー公使夫人の明治日記」として、今尚読み継がれています。
 
ここをクリックすれば、この本の内容が引用された記事にアクセスします。
 
ダヌタン夫人はフレイザー夫人に対する同情をこの日記に認めていますが、
 
彼女自身が、フレイザー公使の死後、16年後に同じ目に遭うのです。
 
そして、帰国旅費を明治天皇に負担して頂いて、
 
ベルギーではなくて、英国に戻り、後世を静かに過ごされた、ということです。
 
本はその頃に書かれたものです。
 
両書とも歴史資料として重要なばかりではなく、
 
文章自体に読み応えありです。
 
特にメアリ・フレイザ婦人の記述は細やかな配慮と美しい文体なので、
 
翻訳からも充分に彼女の人柄が伝わってきます。
 
彼女はメランコリックな悩ましい表情が魅力のヒトだったようです。
 
11月25日

青山墓地

 
英国大使館がまだ公使館だった頃の19世紀終わりの話。
 
Hugh Fraserという公使がいました。
 
 なーんか影が薄いなあ。
 
公使館だから一番上の役職が公使です。
 
ヒュー・フレイザは歴代の特命全権公使第4代になります。
 
彼は唯一、日本で客死した全権代表です。
 
亡くなったのは1894年6月4日の虫歯予防デー、
 
57,8歳の時、死因は原因不明の高熱でした。
 
一説には盲腸炎、という話もあります。
 
僅か100年前は、盲腸炎でも死に至る病だったんですね。
 
彼の柩は東京青山墓地の中央通南、一種イ八側61-63、70-72の部分を占有しています。
 

 
 
数年前、子供たちを連れて一度お参りをしたことがあります。
 
献花もしました。
 
 
 
フレイザー卿が日本に赴任してきたのは1888年。
 
英国ではソールズベリ内閣の頃、つまり帝国議会の前身である自治植民地会議の開催。
 
日本では大日本帝国として内閣が発足する1年前。
 
たった120年前なのに、帝国主義だなんて、人類の進歩は速いのか、遅いのか。
 
フレイザー卿の来日する少し前にノルマントン号事件があって、日英関係は少しギクシャクしました。
 
というよりも、日本は明治以来不平等条約を撤廃するために、
 
欧米といろいろな意味で闘い、欧米を取り入れ、
 
文明化し、富国強兵に力を注いで来たというのは、ご承知のとおり。
 
それが1858年から1946年までの日本史の柱なんです。
 
その流れの中で英国はとても大きな関わりがあったわけですが、
 
それが今日も続いているかと言えば、
 
けっこう変質しているな
 
とも言えます。
 
例えば、外務公務をするとは言え、
 
皇居の隣の一番町に、東京ドーム並の敷地が必要でしょうかね。
 
東京ドームが一年間に稼ぎ出すのがどれくらいになるのか。
 
そりゃ調べれば判りますが、何兆円と稼ぐのなら、
 
一番町のあの場所で一体何を稼ぎ出しているのか?
 
基本的にそれは英国益であって、
 
日本国益ではありません。
 
というのは正に帝国主義、つまり昔の話です。
 
現在は、お互いを繋ぐパイプがないと
 
お互いの経済が成り立たない時代になっています。
 
だから、英国益=日本国益という考え方をしてもいいかな・・・、と。
 
消費と生産の方式で、儲かっている方が支えあうってのは、
 
国際経済の常識になりつつあるけど、
 
こんなこと書くと、またリパーカッションがあるのかな?
 
 
 
実は、フレイザー公使の時代は、既にそういうパイプ経済の傾向がありました。
 
その思想的背景、精神的背景となった人物が
 
6代目の公使アーネスト・サトウ卿です。
 
彼は1862年から1882年までの20年間のほとんどを日本で過ごしながら、
 
民俗学、博物学、文学、法学、日本文化研究などで書を表し、
 
本職は諜報活動に近いことをしていました。
 
その時の情報を元に、英国では日本研究が進み、
 
対日政策は国際政治レベルで英国議会でも取り上げられるものでした。
 
と言っても、当時の議員たちが東洋のことに目を向けるわけはありません。
 
政治家たち以上に、優秀な官僚たちが実際に国際社会の担い手だったことは
 
日英ともに同じだったんです。
 
英国の官僚たちは、19世紀の終わりに、
 
日本の教育レベルとシステムの効率に脅威を抱いていました。
 
でも、議員たちは「そんなの大丈夫だよ。日本は英国よりも100年遅れているよ」てなもんでした。
 
サトウ卿やフレイザ卿は本国に対して、
 
ある種の諦めを感じていたでしょうね。
 
もうちょっと、フレイザ卿の話をしましょうか。
 
続きはまた明日。
 
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7月31日

日英の植生

 
英国に朝顔の花がない理由は夏の暗闇の時間が短いから。
 
英国に朝顔の種を持って来て植えても、発芽はするけどなかなか咲かないそうです。咲くのは寒くなった10月で、寒風の中、小さな花を少しだけ咲かせることがあるそうです。
 
朝顔は夕方に咲く準備を始めて、夜の間約10時間の睡眠を取って、花開くそうです。今頃の東京であれば、6時半頃暗くなりますから、翌日の4時半には暗くても開花するということでしょう。 
 
今日の日の出は5時、日没は21時です。すると、英国の暗い時間はせいぜい8時間です。朝顔は寝不足で目を覚まさないわけです。寝不足は開花の敵、美容の敵ということでしょうか。
 
このデータ、国会図書館と東大図書館に残されています。武田久吉という植物学者が日本で発表したのが1930年ごろ。データがアールヌーボです。というのは冗談ですが、武田博士はロンドン大学で植物学を修める際に、日本の代表的な種子を英国に持ち込んで、いくつかの実験をしたそうです。
 
武田博士の論文には、桜の木の研究もありました。この段階では、推測の範囲を出ないものでしたが、このことはほんの数年前に証明された。という話を聞きました。
 
つまり、日本の桜木を英国に持ち込んで植えると、この国のほかの桜木と同じように「静心なく花の散るらむ」ことはなく、いつまでもずっと咲き続けるようです。
 
ところで、武田博士のお父さんのことは今までに何回か紹介しました。
 
英国公館がまだ公使館だった頃、1895年から1900年まで特命全権公使だったアーネスト・サトウ卿(Sir. Ernest Satow)が、その後5年間の北京公使を終えて、本国に戻ると、日本で生まれ育った日英混血の子息武田久吉氏は、1910年父上を寄る辺に渡英し、王立キュー植物園などで植物学を修めたのです。
 
1916年、日本に戻った同氏は、各地の旧帝大で講師を勤め、植物学の博士号を取得し、自然保護の面でも大きな功績を上げた人物です。例えば、誰でも知っている尾瀬沼。1922年以来議論が起こり、電源開発で水没する危機から尾瀬を救ったのは武田博士の学術的意見でした。
 
それ以前を辿ると、中禅寺湖と武田博士との関係について語ることになります。
 
中禅寺湖畔には現在でも各国大使館の別荘がありますが、最初に避暑地として掘っ立て小屋を棲めるように自分で改築したのはサトウ卿です。それは1880年代の話。その後、小屋はサトウ卿のDIYで徐々に拡大し、サトウ卿が偉くなった頃にはジョサイア・コンダー(コンドル)が設計を手掛けて、現在の建物の原形を作りました。
 
その別荘は中禅寺湖の遊覧船から見られます。敷地内は部外者の立ち入りは禁止です。近年は特に警戒が厳しいので、気をつけて下さい。毎年秋には迷い込んだハイカーの振りをして、写真撮影者が侵入し、警察に何名かしょっ引かれています。このすぐ先には一般公開されているイタリア大使別荘跡がありますので、そちらに行くことをお薦めします。
 

遊覧船はこんなに近づけません。悪しからず。

 
 
 
サトウ卿は幼い久吉少年を連れて、夏の間はこの別荘を拠点に中禅寺湖周辺を散策しました。つまり、久吉少年に植物学を伝授したのは、博物学の権威でもあるサトウ卿なのです。サトウ卿は社会人類学、アジアの語学と文学、外交、歴史、博物誌についての研究と著書を多数残しています。昔のヒトはヒマだったのでしょうか。サトウ卿の場合は、社交よりも研究や読書が好きだったんです。
 
 
そして、中禅寺湖からほど近い尾瀬は久吉少年が武田博士となるまでの間に重要な研究対象となり、世界でも稀な景勝地としてだけではなく、植物学的にも重要な日本純粋種の宝庫として認識されることになったのです。
 
尾瀬沼を沈めて世界最高の電力用高水位にダムが建造されていれば、現在の美しい尾瀬は無いわけです。もちろん、武田博士だけの功績とは言えませんが、尾瀬沼の保存に、サトウ卿という学問と外交の巨人と、英国大使館が関わっていることは、世間にまったく知られていないのに、これだけの事実が隠されているとは、なにやら感動的だな、と思ったまでです。
 
実は、この「尾瀬」「英国大使館」「サトウ卿」「武田博士」については、調査してひとつの書き物に仕上げたことがあります。「知ってるつもり」などの番組で取り上げるくらいの資料に十分なると思います。
 
 
ああ、近親交配の話や、庭の生き物の話をしようとしたのに、脱線しまくってしまった。拙の科学についてはまたずれ、いや、またいずれ。
 
どうも鼻毛嬢の影響がある最近の文面。
 
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4月10日

満開

 
 
日本では、もう桜の季節は終わっちゃったんでしょうか?
 
 
神戸に住んでいた頃、西宮市の夙川公園沿いにある何千本あるんだか判らない桜並木の中の散歩が爽快でした。そして、ここの桜が終わると、今度はわざわざ東京に行って、千鳥ヶ淵とその近くにある「囲われた場所」の桜を楽しんだものです。
 

右がコンパウンド(構内)を囲む塀。2002年撮影。
 
子供たちを連れて、千鳥ヶ淵公園の美しい桜の景色を眺めようと散歩に出ましたが、巷で見たものは目を覆うばかりの酔客の有様。
 
 
桜の根元で御座敷いて、焼きソバソースとタバコの煙で空気汚染。酔っ払いはカラオケで絶叫し、飲みすぎたヒトは根元に吐捨物をまき散らし、上司の説教にキレタ若い社員が殴りかかる光景。救急車で搬送される急性アル中たち、たち・・・。
 
 
あーあ、これが花見か。
 
 
桜の樹々と会話出来たら、彼らはなんと言うのだろうか。
 
 
「最近のヒトは重たくなったね」
 
「よく飲むしね」
 
「この季節は根が痛むよ」
 
「汚物を肥料だと言う人間がいるけど、ある程度醗酵しないと我々には毒素そのものだって判ってないのかね」
 
「桜の名所はどこでもソースの焼ける臭いがつきものらしいね」
 
 
日本の桜の花の命が短いのは、酔客や無頼者を寄せ付ける期間を短くするためだろうか。
 
 
久方のぉ、光のどけき春の日にぃ、ただ酔漢に花の散るらむ 
 
 
お粗末。
 
 
英国の桜は、開花してから何週間も咲いている。一説に拠ると、日本の桜木をこの国に植えると、この国で咲く桜の花に倣うそうだ。桜はそうやって気候に馴染むらしい。
 

英国の桜は八重桜?
 
 
 
人間も倣うのだろうか?
 
しかし、顔は日本人のままだし、英語も思ったほど上手くなっていないし、この国の人々のように忍耐強くない。
 
 
あー、体型は倣うか?
 
 
体重が増えて平均体重に近づいたかな?飯がまずくても体重が増えるからなあ。
 
 
 
 
「囲われた場所」の種明かしをすると、Compound。え、これじゃ種明かしになっていないって。
 
 
千鳥ヶ淵周辺で、約1万坪の敷地を130年前から囲っているところです。
 

桜絨毯のこの場所が最高。2002年撮影。
 
↓このほうが判りやすいかな。写真撮りたいので、中に入れて下さい、と言っても入れてくれません。あしからず。

本館前。
 
英国大使館正面に連なる桜並木は、第6代全権公使のアーネスト・サトウが最初に植えたものという記録があります。しかし、その後の関東大震災で瓦礫と化した旧大使館の撤去作業などで、無残にも死滅し、現在の並木は戦後になってから植え換えられたものがほとんどです。
 
 
館内にも約140本の桜木が植えられていましたが、老木化を理由に2000年には約半数が伐採され、新しい苗木が60本ほど植えられました。それでもご覧のような豪華さです。桜木を愛でる鑑賞会のために館内を開放し、長年の間、近隣住民に喜んでもらっていましたが、ニューヨークの9.11事件以来、それも叶わなくなりました。
 

同じ場所で、2003年撮影。
 
また、以下の場所は、2001年ごろ大使館広報部とテレ朝との間でニュース・ステーション放映の段取りまで進められたものの実現がが叶わなかったところです。その後のことは聞いていませんが・・・。

今日はプリンスとカミラさんの結婚についての記事にするつもりでしたが、時間がないので、ストック記事にしました。まあ、桜もタイムリーなんでしょうが、やっぱ情報は新鮮な方が良いですね。出来れば、明日その結婚式を見ていて思ったことなどを・・・。

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3月24日

英霊の朋友

 
 
 
 
日英間を行き来する拙が日本に居た3年くらい前の話です。

GHQによる占領時、英国大使館に外交機能は無かった。大使館に進駐したのは、英国海軍。
 
ある新聞社の依頼で、在日英国大使館に来たい、というある人物の面倒を見て欲しい、と言われました。

1946年ごろの大使館。今と変わんない?
 
拙は朝8時ごろ、車を駆ってその人物をピックアップするために池袋のホテルまで行くと、時間よりも10分以上早いのに、それらしいイギリス人のオジイサンがホテル前に立っていました。見たところ、普通のおじいちゃんですが、78歳とは思えないほどの身のこなしです。立っているだけなんですが、姿勢でその若々しさが伝わります。
 
 
「Mr. Newboltですね。始めまして。牧歌と申します」
 
「ああ、来てくれて有難う。早速行きましょうか」
 

大使公邸の庭で
 
Mr.Newboltは車に乗り込むなり、自分のことを話し始めました。
 
 
退役軍人であること。今はオーストラリアに住む病気の友人に会いに行く途中であること。日本は1946年以来、56年ぶりであること。戦争中は暗号解読班に所属していたこと。友人に会うのも、日本に来るのも、これが最後になるであろうことなどなど。

ニューボルト氏が乗って来たキング・ジョージ5世号。東京湾で。
 
拙はお年寄りが好きです。知識と教養の泉と言えるだけでなく、何よりも配慮や深慮が素晴らしい。何気ない仕草にその人の人生の重みを感じることってあります。
 
話のやり取りでもイチイチ反応してあげると、様々な記憶が蘇るようです。もちろん、冗長になる時は話題を変えればいいだけの話です。わざと間違えた反応をすると、話が意外な展開になるのも面白いですね。
 
 
大使館に入り、ある公邸に住む外交官の厚意でニューボルト氏とお茶を頂きました。お茶はマグカップで、普通のティ・バッグでした。公邸はジョージアンの重厚な趣きがありますが、あの建物は耐震構造の鉄筋コンクリートです。表面は人造石という素材の吹き付けになっていて、御影石のブロックに見えます。館内に入ることはなかなか叶いませんし、査証などを受け取りに行くのは、レジデンス以外の部分になりますから、一般的にはその建物に触れる機会は無いでしょう。
 
 
同じ建物が横浜の開港記念資料館です。日本の各地に英国領事館跡がありますが、赤レンガであったり、木造であったりするので、1930年ごろまでに立て直されたジョージアン建築のものは横浜の総領事館跡と東京に現存する英国大使館だけです。
 
 
ニューボルト氏が上陸したのは1946年の9月、焼け野原の東京でした。東京港から軍用トラックに揺られて、ニューボルト氏が見たものは高台にそびえる英国大使館でした。現在の晴海近辺に停泊して、そこからでも大使館の建物が見えたそうです。そこだけが焼け残っていて、周囲の廃墟と妙にアンバランスな感じだったそうです。今でこそ、英国大使館はビルの谷間にありますが、地理的には麹町台地と言って、海抜60mくらいの一番高いところにあるんです。
 
 
「東京大空襲を提案したのはウィンストン・チャーチルなんだよ」と拙が言うと、「それでも、ここだけは残せ」とチャーチルなら言いそうだね。と、ニューボルト氏。
 
 
 
ニューボルト氏の本来の目的はここで英国旗をもう一度掲揚することでした。  そうです。戦後初めて掲揚した人物がこのニューボルト氏だったのです。
 
 
 
本館前で守衛さんに手伝ってもらって、掲揚をした時、ニューボルト氏は言いました。
 
 
 
I have just arrived here to tell you War is over.    
 
「戦争が終わったことをこうして告げに来たんだ」
 
 
 
最近ブログに飽きてきました。
ネタはあるんだけど、練る余裕と寝る時間がない。
ブログランキング宜しゅう。
 
 
2月27日

昆布と英国

 
 
それにしても、ヒトの喜びを分かち合えるとは、皆優しいなあ。外は雪景色だけど、心温まります。と、妻も申しております。
 
 
で、本日のお題、
 
 
年に何回か、日本から、外国から、友人、知人が来る。
 
「何か欲しいものがあったら言ってね」
 
というコトバは「英国と暮らーす」身にはとても心に響く。
 
しかし、頼んだものを正確に買って来てくれるヒトと、そうでないヒトとの比率は半々かな。
 
人柄も知れるし、考え方にも触れる。
 
絵になるのは、得てして、頼んだものを買って来ないで、大体こんな感じだろうという見当のものを持って来るヒト。
 
B型?
 
いや、ブログの毛色を変えるつもりはない。
 
血液型とセーカクに因果関係はない。セーカクのパターン化はそんなに簡単には出来ない。
 
ともあれ、絵にしなくてもいいんだが、こうしてコミュニケーションの達成率がいつも70%くらいなヒトもいる。
 
こちらが120%伝えても半分聞いているか、どうかってところ。
 
ただし、利害が絡んでくると、必要以上にいろいろ持って来る。
 
そこんところがはっきりしている。
 
やっぱりB型?(くどい)
 
実は、欲しいものはそんなにない。
 
昆布茶と昆布があれば、大体用は足りる。(この話もくどい)
 
昆布茶と頼んでも「かつおダシの素」を持って来るヒトもいる。
 
体質的にかつおダシが食べられないので、笑顔で一応受け取る。
 
ちょっと悲しい。
 
クリスマスには必ずチョコレートを贈ってくれるヒトもいる。わざわざ日本から。
 
ここはチョコの国だぞ。
 
昆布オクレ昆布ぅぶう
 
 
 
1860年代、列国の圧力によって日本の各港が開かれた後、会所貿易が破綻して、中国の広東、上海は北海道産の干物の供給が断たれたかに見えた。
 
 
 
食は広東にあり、と最初に言われた頃、料理人たちは「旨み」を出す素材として北海道の昆布や干物に注目していた。
 
 
 
そして、自由貿易後、その輸送を担ったのは英国商船である。本当は中国の貿易権を分捕ったのだ。昆布に興味なんかないくせに、軽い海産物で容積重量を稼ぐ狡猾な商売。
 
ずるいぞ、イギリス。
 
昔の話ね。しかし、類稀な市場調査能力。
 
 
 
今はもっとずるいかもしれない。
 
英国が通貨統合に参画すれば、ドル経済に打撃を与える。ユーロとドルのバランスが崩れて、ドル国家日本は沈没するかもしれない。でも、英国には参加しない別の理由がある。統合参加すると、ヨーロッパの経済レベルまで自分が下がっちゃうから。「国益」ってコトバが好きだよなあ、みんな。まだグローバルに考える時代じゃないんだね。でも、日本の国益を考慮する必要が英国にはあるのかもしれない。すると、それは充分にグローバリリズム?データの見方によって如何様にでも見える経済のバランスは説明がし難い。そう、拙は経済音痴。経済界の友人によく叱られる。
 
 
 
話は戻って、当時、英国の意図は他にあった。
 
小樽や函館に領事館を建てて、ロシア、中国情報を得ようとしていた。
 
特にロシア。
 
英国の中国権益を侵す可能性のあるアブナイ国、ロシア。
 
とうぜん、北海道中を旅行した外交官、領事官が数名いる。
 
ロシアが北海道まで来たら、どうなるか?
 
そういう視点で、偵察活動をしていたんだな。
 
スパイじゃん。
 
MI6じゃん。
 
でも、結局情報は中央に集まるので、地域調査と地理調査だけに留まった。
 
「大規模不凍港は小樽以北では不可能」
 
英国調査隊の結果は英国公文書館で閲覧可能。
 
こんなことまで知ってたのか、と驚くような報告書もある。
 
英国商船は北前船の分まで北海道の産物を中国や英国本土に送った。
 
日本は豊かな農水産国だったんやなあ。
 
何だ、日本って豊かやん。
 
誰だ?工業資源のない貧しい国だって言ったの?
 
そう思ったところから、日本のながーい戦争が始まったんだけどね。
 
でも、昆布はまだ一大産業。
 
日本万歳
 
海外に住んでいると国粋主義者・・・になりそう。
 
 
日本を愛して止まない方。拙もその一人です。同胞に熱き応援クリックを!http://blog.with2.net/link.php/29834  
 
でも、愛国心ってなんだろう。それもそのうち取り上げよう。これは恋愛と絡めた方が面白いかな。
 
 
 
 
 
2月13日

2002年サッカーW杯優勝国

 
英国が優勝しましたねえ。
 
ちょうどその頃日本に居たので、拙はブロック別の第一回戦から優勝戦までのすべてに脚を運びました。大体夕方か、週末だったのがラッキーでした。
 
会場は府中、江東、三ツ沢、そして新横浜などで行われました。
 
 
と、ここまで述べると、???と思っていたアナタでも何のことだかお分かり頂けるでしょうか。
 
 
そうなんす。これは「障害者のW杯」の話、W杯の本戦が行われた後、世界中の障害者が集って開かれました。
 
これを見て拙が思ったことは、
 
身体能力が劣るから障害者って呼ぶのは間違いだ。
 
ということ。
 
身体的に何かの不都合があるんだろうが、彼らは普通に生活する以上の能力を持っているんです。
 
技術的には日本の高校の全国大会レベルかな、という評価です。
 
 
それって、十分セミプロ並みでしょ?
 
 
能力は磨けるんだ。
 
応援する人たちにも彼らの活躍は励ましになるんだ。
 
今朝のニュースに彼らが出ていました。
 
それぞれの選手がエバートンなどプロが運営する障害者チームに所属しています。
 
すいません、ちゃんとURL読んでいません。でも、良い話だったんで。
 
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1月8日

三宮夫人とプロトコル

日本のプロトコル(典礼儀典)を語る上で、このご婦人の名前を外すことは出来ない。

 

プロトコルとは、簡単に言えば国際間のエチケット。PC用語では通信規約などと、とんでもなく軽い意味になっている。でも、どちらも「規範」という一貫性はある。

 

日本の外務省の儀典官室の英語名はProtocol Office。ここは外交上の儀礼をつかさどる部門。各国の外交官や領事官たちが日本で快適な生活を送れるように配慮するところでもあるし、ことあるごとに、そのエチケットに基づいた行為の先頭に立つという、普通にやって当然、やれなかったら笑いモノは、まだ良い方で、降格人事や左遷が起こりうるという大変プレッシャの掛かる職務でもある。

 

断っておくが、外交職の人々が特権を持って、外国でのうのうと暮らすために特別な計らいを受けていると思ったら、それは間違い。外交職とは政治的に参勤交代の人質に相当する。そういう人たちが公務を遂行するうえでの法的な障壁を取り除くのが儀典官室の役割になっている。でも、日本で生活する外交官の場合、外交特権なんてものは殆ど無い。ある特定の物品購入の際に免税になるくらいのものだ。それだけ日本は安全で住み易いということか。

 

では、プロトコルの運用にはどのようなものがあるか。主なことを挙げれば、国賓待遇の訪問者があったときに、具体的にホテルや宮城で行われる礼典、式典で、相手国に敬意と友好を示すことである。気を配るべきは名前、呼び方、序列、席次、行事次第、国旗の扱い方、勲章、服装、テーブルマナーなどなど、高貴な方々をお招きして、粗相のないように丁重な作法でもてなすわけだ。

 

ここで、ようやく三宮夫人と話は結びつくけど、いきなり墓碑の話。三宮夫人は鹿鳴館時代など明治の社交界を生き抜いた人物で、大正8年に没し、琵琶湖の近くの正源寺(大津市真野5丁目)に墓碑を残す。以下URLは寺周辺の地図。また、寺めぐりか。

 

http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&el=135/55/31.273&nl=35/07/43.147&scl=25000&coco=35/07/43.229,135/55/31.273&icon=mark_loc,,,,,&grp=all

 

後に男爵となった三宮義胤と婚姻する以前、三宮夫人はアレテア・レイノアという英国人だった。義胤は明治3年に東伏見宮に追随して英国留学し、同9年から駐英日本公使館の二等書記官となった。どの時点で婚姻したかという記録は探していないが、当時、一般的に、外交官と婚姻する場合、妻となる配偶者は外交官である夫と同じ国籍にならねばならなかった。そして、同13年には夫人同伴で日本に戻り、若き義胤は宮内省に転じた。と言うより転じさせられた。

 

日本政府が、三宮夫妻に国運を賭けるほどの期待をもって、創設間もない宮内省の式部官に転じさせた最大の理由は、その貴人としての外交生活の経験とプロトコルの知識だった。当時の日本は、日清戦争に勝った頃で、欧州列強に食われまい、交渉負けすまい、と戦々恐々としていた時代である。欧州は強くて、独善的で、勢力を拡大しようとするから、弱かったり、変に目立つヤツは潰されてしまう。日本が生き延びるためには、欧州と同質化して仲間に入れてもらい、さらに強くなっていく必要があった。

 

当時の宮内省の式部官というのは、日本に駐在していた列強国の代表たちとその夫人たちに応対する事実上の外交官だった。もちろん、この二人だけではない。国家の存亡を賭ける外交要員は明治天皇以下すべての皇族と政治家たち、そして政府高官たちだ。日本側は手分けをして各国の代表たちとの交際に務めた。戦争するよりゃマシだというところだろう。

 

三宮夫妻の役割は、皇族にプロトコルのアドバイスを与え、接待の実務を指導し、日本の国際的印象を高めることにあった。つまり、プロトコルを運用する世界で、接待や饗応は命を賭した仕事なのであって、「あいつ嫌いだから行かない」などとタワケタ小娘のようなことを言っておれないのが、当時の日本の貴族、華族階級に課せられた社交界での役割だったわけだ。

 

列強の紳士と淑女たちはそれぞれ異なる色めがねで当時の日本を見定めていた。紳士たちは日本の軍事力と経済力を測っていたが、淑女たちは日本人の文化活動やその資質に注目していた。三宮夫人は国際赤十字の役員をしたり、岐阜大地震の際には孤児院を設立している。その目的は列強の夫人たちに見てもらい、日本の近代性をアピールすることだった。英国人の顔をしている自分の手柄ではないんですのよ、という態度を取っていたのだろう。

 

よほど旦那に惚れていたのか、日本を愛したのか。はたまた、物心両面からの束縛で、英国に戻れない諦めを職務への情熱と転化させて納得していたのか・・・。時はまだ19世紀末である。日英間は船で3,4ヶ月掛かる時代。うへぇ。でも、日本の教養ある知識層に触れて、日本のことが嫌いになる人はいないと思う。何しろ、日本人は国を守る意識が強かったから、素直で、吸収力も早かったので、教え甲斐もあったことだろう。三宮夫人はこの国のために貢献することが神に与えられた仕事だと思っていたかもしれない。日本がまだ正しい方向に向かっていた時代の話。

 

三宮夫人はプロトコル以外にも、列強に好感を持たれる様々な方法を日本人に伝授していたものと想像される。以上のことは、次に紹介する一般文献でも、ある程度のことを読み取ることが出来る。作者のダヌタン夫人も興味深い人生を送った人物。彼女も三宮夫人も元々英国人だったが、日本で両名が出会ったときは、婚姻で国籍を変更し、それぞれ日本人とベルギー人になっていた。

 

「ベルギー公使夫人の明治日記」 エリアノーラ・ダヌタン著

 

また、プロトコルについてもっと知りたい人へのお薦めは、

「国際儀礼に関する12章」 外務省外務報道官/編集   世界の動き社刊  \1,100

 

どちらもアマゾンで買えます。プロトコルの本を書いてもらえませんか?と依頼されるくらい、日本ではこの手の情報収集が困難です。まあ、冠婚葬祭事典で結構用は足せますが、英文の方は専門書がたくさんありますし、遡って学習していくと、イタリアのメディチ家などが創設した外交の始まりにまで辿ってしまいます。作法と言えども・・・、というよりも、相手に対する配慮の積み重ねとしての作法だからこそ奥が深いと言えます。

 

そのうち貴婦人シリーズでもやるか、と思うものの。うーん。面白すぎるし、資料読みがてーへんです。

 

三宮夫人って写真がないんだよなあ。この前のイメージ画像で勝手に作っちゃうか?

 

どなたか滋賀県近辺の方、この墓碑にお参りして、碑文の内容を調べて、小説にしてみたらどうですか?一大歴史小説になる、かもよ。墓参の際、くれぐれもご家族にソソウのないことを願います。

 

写真が何もないのも物足りないんで、今日の肴に。ここはどこでしょう?日本ですよ。

 

 

12月29日

お寺めぐり

このカテゴリは久々です。改訂版になってからは初めて。オリジナルは都合により全文を削除しましたが、当方にはいくらでもデータがあるので、この改訂版にアップすることは可能です。前作のタイトルは「日本の中の英国 その1」として日英関係の始まりと長崎の話と駐日英国大使館の建物の話、「英国船と昆布」として開港当初の貿易の話と長崎の話でした。知りたい方はリクエストして下さい。

 

駐日英国大使館のある場所なんですが、あそこは千代田区の中でも一番高いところにあります。標高36mあるんです。江戸時代初期まで現在の有楽町辺りが海水と淡水の入り混じる湿地や葦の原だったことを考えれば、海岸沿いの高台ということになります。

 

その後江戸城の普請や沼地の埋め立てで海岸はさらに遠くなりましたが、その高台からの景色は東には海、北には筑波、西には秩父、南西には富士山が臨める位置であったことが判っています。

 

ところで、現在の英国大使館が公使館から大使館に昇格し、役職者の最高のタイトルが公使から大使となったのは、第二回日英同盟の1905年のことです。その頃まで、大使館というもの自体が世界中に少なくて、関係の濃密さや大国に対して大使を派遣するか、公使にするかという漠然とした決め方をしていました。現在でも明確な規定はありませんし、小さくても大使館だったりします。

 

ともあれ、日本に公使館が設置されたのは1859年のこと。初代公使はラザフォード・オルコックという前職は広東領事でした。この人は元々外科医でしたが、リューマチで手元が震えて執刀出来なくなり、やむなく領事職に転身した変り種です。当時は領事職と外交職の区分けがはっきりしてしていて、彼の場合は領事「官」でしたが、日本に総領事として赴任した際に、うまく外交職へと転身したことも当時としては珍しいことでした。その領事職と外交職は1941年の英国の外務省改革で区分けがなくなり、現在の英国外交官の職務は領事も外交もカバーします。

 

オルコックの手記(「大君の都」岩波文庫 絶版)と英公文書などの文献に拠れば、彼は公使館用地を見つけ出すのに、最も苦労した公使です。現存する品川の東禅寺は、英国使節が最初に落ち着いた場所とされています。条約港の神奈川にこだわって、これまた現存する浄滝寺に短期的に入ったことはあります。しかし、海岸へのアクセスが不便なことと街道のすぐ近くは危険なことで、東禅寺に居を戻しています。その東禅寺では1861年に攘夷集団のテロを受けています。英人のけが人も出ました。ええ、日本でもテロが起きていたんです。

 

そのため、公使館の主要機能を、横浜に作られたばかりの居留地内の総領事館に移しました。以来、東禅寺は東京事務所となり、横浜事務所との二重生活が始まります。まだ新橋-横浜間の鉄道(1872年開通)もない時代だったので、東京まで行くのは一日掛かりでオルコックたちは大変に不便な思いしましたが、日本最大の横浜居留地は完璧な外国人の社交世界で、景観にも恵まれ、その家族たちはパラダイスだった、という手記を残しています。

 

あいつぐ外国使節襲撃事件をきっかけに江戸幕府は外交使節のための収容設備を作ろうと、品川の御殿山一帯を開発する計画を立てました。しかし、その間にも東禅寺は再び襲撃され、英人水兵2名が斬殺され、生麦事件も起こりました。1863年には完成間近の御殿山公使館も長州藩の攘夷派によって焼き討ちにあいました。その中の中心事物が伊藤博文、高杉晋作、井上馨です。伊藤と井上はこの後、トマス・グラバーに近づいて英国に密航し、その文明に接し「こりゃ、かなわん」と攘夷を止めたことから後々有名になった人です。拙に言わせれば、利益に敏感な人たち、ということです。

 

その後、日本政府とのやり取りが増えてくると、どうしても東京の事務所を拡張する必要が出てきました。幕府は英国使節のために東禅寺前に安普請の公使館を建設しますが、これが数年で使えなくなります。そこで、手狭になった東禅寺と並行して同じ品川の泉岳寺を利用することになりました。つまり、1859年の開設以来、東京の公使館が現在位置に完成する1875年まで、英国公使館は東京と横浜の間を往復し、寺から寺を辿っていたわけです。

 

1872年に開通した鉄道の横浜駅が現在の桜木町であったことは良く知られているところです。英国は技術だけでなく、自分たちの都合もその敷設に取り入れていました。桜木町からバンドと呼ばれる居留地までは徒歩でも行けるくらいの距離でした。

 

在京の方はそれぞれの寺に散歩されて、150年前の英国を感じてみてください。

東禅寺・・・高輪2丁目。JR品川駅から国道15号を500m北上し、歩道橋の先で左折し約300m進むと正門。開港の頃は、国道15号の辺りが海岸線だった。

浄滝寺(じょうりゅうじ)・・・横浜市神奈川区幸ヶ谷13番?辺り。古い寺なのですぐに判る。京浜急行神奈川駅から線路沿いに北に向かって徒歩約10分、滝の川沿い。ここも国道15号沿いが海岸線だった。海辺の寺だった感じがわかる。

泉岳寺・・・地下鉄泉岳寺駅からすぐ。ついでに赤穂浪士のお参りも。

写真は浄滝寺です。東禅寺と泉岳寺はあちこちのウェブに写真が出ています。

 

今後使うキーワード)

最高の高台

富士見

藩名

廃藩置県

品川

横浜

赤レンガの洋館